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『現代版 ふるさとの菓子』序文

 「中村汀女」(なかむらーていじょ)。大正、昭和に活躍された有名な俳人で、現代に読み継がれる名句を残れた名人です。

 日々の生活の中に多く題材を見出だした汀女の作風は、卑近なものばかりを扱い平凡でつまらないとして「台所俳句」と批判されることもありました。しかし彼女は「私はちっとも気にしなかった。私たち普通の女性の職場ともいえるのは家庭であるし、仕事の中心は台所である。そこからの取材がなぜいけないのか」(『中村汀女 汀女自画像』日本図書センター より)と毅然と応じました。実際汀女の句は生活感と温かみにあふれており、特に家庭や子どもを題材とすれば右に出るものはありません。それ故汀女は私にとっても大好きな俳人の一人です(ほかの人についてはまた今度)。

 この汀女の著した句集の一つに『ふるさとの菓子』というのがあります。全国各地のお菓子を一ページにつき一つとりあげ、それを紹介するエッセイとそれにまつわる句を一句添えるという形を取ったものです。甘いものの大好きな私にはたまりません。この本は優れた句集としてもさることながら、エッセイの方も見所で、それぞれのお菓子の味やそれにまつわる思い出、さらにはどこの名産でどんな謂れがあり、何々屋のが美味しいという品評までもがこだわりのこもった筆致で記されています。私はページをめくるごとに、それぞれどんな味だろうと思いを馳せつつ読み進みました。

 しかしこの本には一つ問題があります。それは、出てくるお菓子が渋すぎること。扱っているのはどれも昔ながらの郷土菓子で、汀女の時代には身近だったのでしょうが、平成生まれの私には今ひとつピンとこないものも多いのです。「かきもち」や「そばぼうろ」ならばまだしも「きぬた」「時雨餅」「二人静」あたりはもう分からない。ページをめくるごとに、それぞれどんな味なのだ・・・・・・?と疑問に思いながら読んだことも少なくありません。

 確かにお菓子はいい句題です。舌にも目にも楽しく、人と人とがつながり、季節感が表れる。まさに俳句の楽しみと同じです。しかし、渋すぎる。私にとってお菓子といえばチョコレートとかポテトチップスとか、スーパーやコンビニで買えるようなものです。汀女の生きた時代と現代とでは大きな隔たりがあります。名句の味わいは時代を経ても廃れませんが、お馴染みのお菓子は変わってしまいます。

 そこで私は思いました。誰か現代のお菓子を扱った『現代版ふるさとの菓子』を書いてはくれないものか。誰かお菓子好きの俳人が新たにお菓子の句集を出してくれたら面白いのに。そう考えて書店を探しても、残念ながらそんな句集はありませんでした。どうしたものでしょう。どこかに現代を生きるお菓子好きの俳人はいないものでしょうか・・・・・・。いや、いる。
 
私だ。

 誰も書かないのなら自分で書いてしまおう。私は俳句は趣味でやっている程度ですが、一応句会には属しているし「俳人」と名乗ってもお許し頂けるでしょう。自分が読みたいものを自分で書くくらいはお目こぼし頂きたいところです。

 ちなみに私は汀女と同郷だとか、同じ結社の後輩だとかいった縁は全くありません(私の生まれは神戸です)。ただ一介の俳人として、また汀女のファンとして愛読する句集のオマージュに挑戦したいと思うのです。
 
 タイトルには「ふるさとの」と入れていますが、題材は地域の郷土菓子に限りません。むしろ私が普段食べるものなのでチェーン店のメニューや市販のお菓子がほとんどでしょう。ただタイトルにはオマージュとして「ふるさと」を残させて頂きます。

 もちろん私は詩才も文才も汀女には遠く及びません。しかしこれを書き続けていく中で通してそれらの腕を磨いていければいいなと思っています。その点でこの取り組みは書き続けることに意味があると言えます。文字数や期間などゴールは特に決めずに月に2,3本のペースで気まぐれに書いていこうと思います。どうかお心の広い読者の皆さんにおかれましては、稚拙な俳人が僭越にも汀女の業の模倣に挑むという若気の至りを温かく見守って頂ければ幸いです。

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