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人種差別を含む社会問題を考えるきっかけ ~子供の頃に読んだ優れた「児童文学」

 この年末から年始にかけて、「人種差別主義者たちの思考法―黒人差別の正当化とアメリカの400年」(ケンディ・イブラム:光文社)を読了した。内容について触れる前に、書籍自体について一言。B5版で664ページ。ともかく重くて大きい。巨大な本である。手に持って読むにはとてつもない体力を必要とする。もっと版を小さくして上下巻の分冊にできなかったのだろうか?
 この本の内容だが、「…黒人はいかなる論理で『劣った人種』とされてきたのか。政治・経済・文化的な利己主義から、またときに『性』が誘導し、『宗教』や『科学』「が追従することで、その差別の正当化を行ってきたアメリカ社会。著名な学者・哲学者の理論から、政治家の言動、そして一般大衆や黒人自身までを対象として複雑に絡み合うその『人種差別思想』の歴史を描く、アメリカ人種差別問題の決定版!」…というコピーの通りである。既に知っている話も多く、登場する政治家や社会改革者、高名な学者等の発言や黒人奴隷についての考え方についてもほぼ想像通りの内容で、特に感銘を受けたわけではないが、アメリカで黒人差別の社会構造が形成される重層的なプロセスを考察した論考としては非常によくまとまっていると感じた。

 今回書きたかったのは、この本の感想ではない。杉田水脈から保守を自称する政治家、ネット上に増殖するネトウヨに至るまで、昨今の日本国内における差別的言辞の目に余る氾濫の中で、「人種差別」というものについてこれまで自分がどのように考えてきたのか、また自分が実際に海外在住時に受けた差別、日本社会で見聞きする差別的事象、他者の差別的言動に対してこれまでどのように対応し、行動してきたか…について、この本を読んであらためて考えるところがあった。今になって思い起こせば、僕が「人種差別」というものについて、おぼろげながらも最初に考えさえられたのは、小学校高学年から中学校1年生にかけてのことで、それは「児童文学」によってだ。「人種差別主義者たちの思考法」を読んだ僕は、子供の頃に読んだ1冊の本を思い出した。


■八月の太陽を

 さて、上記の「人種差別主義者たちの思考法」という本は、全体が第1部から第5部に分かれており、その第2部は、「トーマス・ジェファーソン」というタイトルになっている。内容は「啓蒙の時代/黒人の能力を証明する存在/平等につくられ/是正勧告/大きな尻/黒人のための植民地」…だが、トーマス・ジェファーソンのかなり屈折した黒人観について記述している。
 アメリカ独立宣言の起草者のひとりであるトーマス・ジェファーソンは、ある種半端な「奴隷制度廃止論者」であり、一方で数多くの奴隷を所有する南部の大農園主で、「政治、道徳、自然の歴史、社会的状況等を考慮すれば真の奴隷開放は難しい」とも発言している。啓蒙思想家としてのジェファーソンの黒人奴隷解放への「限界」については、彼が生きて活躍した18世紀後半から19世紀初頭という時代背景から見て、よく理解できる。ところが、彼が合衆国大統領であった時期、1791年~1804年にかけて、世界で初めてのアフリカ人奴隷の反乱と建国が実現した「ハイチ革命」が起こった。「人種差別主義者たちの思考法」の中でも、このハイチ革命とそれについてジェファーソンがとったスタンス・政策について詳しく触れられている。大統領であったジェファーソンは、ハイチ革命に対して諸州のプランテーション・オーナーが抱く危機感を共有する形で反対の立場を維持した。ジェファーソンは、ハイチ革命と独立・建国を否定し、通商関係を停止して独立直後のハイチを経済危機に追い込み、黒人政権の正当性を否定したのだ。
 
 このハイチ革命について僕が最初に知ったのは、実は「八月の太陽を」(乙骨淑子:理論社)という児童文学書である。調べたら発行は1966年とのことなので、おそらく僕が小学校6年生の時に読んだ本であろう。本自体は現在手許にないが(おそらく実家には保管されていると思う)、現在でもはっきりと内容を覚えている。ともかく当時夢中になって読んだ面白い本で、50年以上経った今でも内容だけでなく独特のタッチで描かれた表紙や挿絵まで記憶している。
 
 ハイチ革命についてあらためて詳しく書くことはしないが、フランス革命、ナポレオンの登場と同時期に起こったこの革命自体について、現在の日本ではあまり知られていないようだ。革命の経緯はむろん、それが世界で初めてのアフリカ人奴隷の反乱と建国であったことの歴史的意義についてなど、中学・高校の世界史の授業などでもほとんど触れられていないだろう。
 「八月の太陽を」と言う本は、ハイチ革命の優れた黒人指導者トウセン(トゥーサン・ルーヴェルチュール)の闘いと生涯を描いた物語である。サン=ドマングと呼ばれるフランスの植民地ハイチでは、大多数の黒人を一握りのフランス人が強圧的に支配していた。フランス本国で起きた市民革命の影響を受けて、サン=ドマングの黒人達は徐々に自らの権利に目覚め植民地支配体制へ抵抗し始める。こうした動きの中でトウセンは頭角を現していく。最初トウセンは、フランスとスペインが戦ったフランス革命戦争の中で、スペイン軍の将校として戦った。この戦いの過程で、彼は指導力を発揮して強力な黒人部隊を作り上げていく。そして、その後サン=ドマングに上陸したイギリス軍が優勢となる中で、トウセンは本国でジャコバン派の国民公会が奴隷廃止を決めたことに強く共感し、奴隷制維持を明言したスペインを見限って、フランスの革命政府軍側につく。そして軍事指導者としての優れた才能・能力を発揮し、フランス革命政権の将校となってイギリス軍、スペイン軍に何度も勝利を収めた。その後、フランス、イギリスとの間に起こった様々な軋轢を経てトウサンはサン=ドマング全域に支配権を確立し、ハイチを事実上の独立へと導く。独立後もイギリスやトーマス・ジェファーソン大統領下のアメリカとの対立は続くが、最終的には植民地としてのサン=ドマングをあらためて欲したナポレオンが大軍を派遣し、トウセンは捕縛されてフランス本国に送られる。彼は人里離れたアルプス山中の堅固な要塞に監禁され、繰り返し拷問を受けた。1803年4月7日、トウセンは肺炎で死去した。彼の死後も独立を求める戦いは続けられ、フランス軍はついにハイチから撤退し、1804年1月にハイチ共和国の独立が宣言された。
 「八月の太陽を」の最後の部分、ハイチという南国から酷寒のアルプス山中の要塞に軟禁されたトウセンが拷問と寒さによって次第に衰弱していき死に至る場面は、涙なくして読めない。石造りの要塞の小さな窓に顔を寄せて故郷のハイチを想うトウセンの姿を描いた挿絵を、還暦を過ぎた今でもはっきりと覚えている。
 
 それにしても「八月の太陽を」は、小学校高学年から中学生向けの児童文学書としては、非常に優れた内容の本だったと思う。アフリカ系黒人の植民地からの独立…という革命の経緯が書かれているだけでなく、フランスという宗主国との関係、「自由と平等」を唄ったフランス革命の理念と現実、同じ被支配者のなかでも黒人とムラート(混血)系住民との対立など、単純な革命物語ではない様々な要素が含まれていて、単なるトウセン(トゥーサン・ルーヴェルチュール)の自伝には留まらない、深みのある内容だ。小学校6年生の時に「八月の太陽を」を読んだ僕が、当時どんな読後感想を持ったか、そして何を考えたか現在では記憶が定かではないが、ともかくこの本で「アフリカ人奴隷の反乱と建国」について初めて知り、「植民地支配」や「黒人差別」についていろいろと考えたことだけは確かだ。

■シンバと森の戦士の国

 僕は、小学生時代から中学校低学年にかけて、毎年「読書感想文コンクール課題図書」を読んでいた。その課題図書の中で大人になった現在に至るまで記憶し印象に残っている本が何冊かある。そのうちの1冊が「シンバと森の戦士の国」(野間寛二郎:理論社、1967年度の課題図書)だ。この本は、1963年にイギリスから独立したケニアの独立戦争と、その独立戦争の主役となった「マウマウ団」を描いた児童文学だ。タイトルの「シンバと森の戦士の国」の「シンバ」はスワヒリ語でライオンを意味し、「森の戦士」はマウマウ団を意味する。
 
 ところで、一昨年イギリスのエリザベス女王が死去した際、日本のマスコミ、日本人の多くは無邪気にエリザベス女王の功績への賛辞を繰り返した。しかし世界を見れば、必ずしも無条件で女王の業績に賛辞を送った国ばかりではない。例えば長い間悲惨な植民地支配を受けたインドは、表向きは国を挙げての弔意を表明しながらも、女王の国葬には国の代表であるモディ首相が出席せず、代わって大統領が出席した。旧植民地のアフリカ諸国も、女王の死に複雑な反応を見せた。確かに表向きには多くのアフリカ諸国から女王に対する尊敬と弔意を示す声が聞かれたが、一方でイギリスから植民地支配を受けた国々からは、複雑な感情や反発を示す声が噴出した。
 南アフリカでは、急進的なEFF(経済的自由戦士)が「自分たちはエリザベス女王の死を悲しまない。英国は王室の下でアフリカ、そして我が国を植民地化した。1806年にケープに占領地を築いて以降、先住民は平和を失った」とコメントした。
 エリザベス女王の死去直前、米カーネギー・メロン大学ウジュ・アーニャ准教授(ナイジェリア人)が「泥棒で、性的暴行者の大量虐殺帝国の君主がついに死にかけていると聞いた。彼女の痛みが耐え難いものでありますように」とツイートして多数の人々から非難された騒動は記憶に新しい。アーニャ氏の両親と2人の兄弟は、1967年から1970年にかけて勃発したビアフラ内戦時のジェノサイドの生存者だ。アーニャ准教授は、「ビアフラで起きたジェノサイドでは300万人のイボ人が殺され、イギリス政府は虐殺を犯した人々を政治的に支援しただけではなく、直接資金も出していた」、「女王が身につけている王冠は搾取や略奪から得られたものであり、国庫全部は殺人や奴隷制によって得られた泥棒のレガシーだ」と断罪している。
 1963年にイギリスから独立したケニアでも、同様の声は大きかった。ルモンド紙は「誰もイギリスが植民地期にケニアでやったことを話さない」というケニア人の声を紹介した。「イギリスがアフリカの文化や国々、私たちの富や社会の在り方に何をしたかと思えば、あの人たちはここへ来てきちんと謝罪するべきだ」との発言も紹介された。

 ケニア独立戦争は、19世紀末から20世紀初頭にかけて、イギリスの植民地支配下にあったケニアで起こった民族主義的独立運動である。1952年から1960年にかけて、ケニア最大民族であるキクユ族を中心とする約10万人の兵士によって構成されたマウマウ団が、イギリス植民地政府に対して武装闘争を展開した。マウマウ団の起源は、1940年代にケニア・アフリカ人同盟(KAU)の青年部が結成した「ムンゴ」という秘密結社である。ムンゴは、イギリス植民地政府による不平等な支配に反抗して、武装闘争を志向するメンバーによって構成されていた。1952年、ムンゴはマウマウ団と改称し、イギリス植民地政府への武装闘争を開始した。マウマウ団は当初白人入植者を襲撃し、後にゲリラ戦術を駆使してイギリス軍と戦った。
 植民地政府は、マウマウ側の掃討に乗り出し、マウマウ側のリーダーと考えていたジョモ・ケニヤッタ(独立後のケニアの初代大統領)らKAUの指導者を逮捕・拘束した。反乱はキクユ族以外の諸民族をも巻き込んで拡大した。植民地政府は、イギリス本国から派遣された正規軍5万人、戦車、爆撃機などを投入しナイロビで2万7千人、農村で107万人の反乱支持者を逮捕した。1956年にニエリ方面の指導者、デダン・キマジ・ワシウリの逮捕によって乱は終結。この反乱によるマウマウ側の死者数は11503人とされている。一方、ケニア植民地側の死者数は、わずか1920人だった。このマウマウ団の乱を機に、KAUの中心メンバーによってケニア・アフリカ民族同盟(KANU)が結成され、ケニアは1963年に独立を果した。
 
 「シンバと森の戦士の国」は児童文学であり、ストーリーを子どもが語っている体裁になっているが、上記のマウマウ団の戦いの記録については歴史的事実をきちんと描いている。鉄パイプで作る簡易銃(ライフリングがない)を自作して近代的な装備のイギリス軍に対抗したが、その銃の作り方まで書かれていた(記憶だけで書いている)。イギリスがケニアの植民地支配の中で、残虐に原住民族を虐げてきた事実が詳細に描かれた。僕は中学校1年生の時に読んだこの本で「マウマウ団」という言葉を知り、それ以降「ケニア」という国名を聞くと真っ先に「マウマウ団」を思い浮かべるようになった。
 マウマウ側の死者数は11503人と記録されているが、マウマウ団の母体となったキクユ族は100万人以上が逮捕され、うち10万人以上が隔離収容所に送られて拷問を含む過酷な扱いを受け、2万人以上が死んだ(一説には戦闘以外での死者は5万人以上)。イギリスは独立戦争時のケニアで、キクユ族に対する「民族浄化」を行ったわけだ。これはそんな昔の話ではなく、昨年死去したエリザベス女王の即位後に行われたことだ。ケニア人が、謝罪ひとつしなかった女王死去に対して複雑な感情を抱いたのは当然のことである。
 このケニア独立戦争についてイギリスは、マウマウ団を「悪魔のようなテロリスト集団」と呼んで、世界的なネガティブキャンぺーンを展開した。1954年から1956年にかけてイギリスやアメリカでは相次いで「恐怖のマウマウ団」を題材にする映画が製作され、世界で封切られた。
 
 ところで、本稿を書くにあたってこの「シンバと森の戦士の国」という児童書についてネット上の情報を調べていたら、面白い論考を見つけた。「鯨イルカ・イデオロギーを考える(Ⅰ)-膝原英司の場合(その1)-三浦淳」という論文だ。これは日本海セトロジー研究会第15回大会(2004年7月4日、 金沢市 石川県立生涯学習センター)で口頭発表された内容に加筆したものだとのこと。
 内容はタイトルの通りのものだが、その中でこの論考の著者は、著名な動物学者の膝原英司が「野生のエルザ」の邦訳者であることから、アダムソン夫妻が暮らした時期のケニアの状況、特にその後ジョイ・アダムソンが現地人の使用人に殺害されたことから植民地支配者と被支配者の関係について記述している。特に、アダムソン夫妻がケニアで過ごした時期はケニアの独立前から独立後にまたがっており、夫妻が当時のケニアで起こっていた独立運動と、その独立運動の主体となったマウマウ団についてどのように考えていたかについても考察している。こうした内容が、野生動物保護とどのように関連するかについては、原文を読んで欲しい。
 「野生のエルザ」邦訳者の膝原英司は、ジョイ・アダムソンの野生動物を扱った他の著作、自伝、そして夫のジョージの自伝も邦訳しており、アダムソン夫妻とのつながりが強い。結論を言えば、アダムソン夫妻、そして自伝を書いた夫のジョージ・アダムソンともに、内戦中から独立後までずっとイギリスの植民地支配を肯定し、マウマウ団を悪の組織と認識していたということだ。野生動物の保護を現地の人の生活とのかかわりの中で考える…という視点を欠いていたと批判している。
 そしてこの論考の中で、「シンバと森の戦士の国」という児童書について詳しく言及されている。要する「野生のエルザ」が書かれた50年代から80年代に至るまでマウマウ団を「凶悪な暴力集団」との認識が世界で広まっていたのに対して、1967年に発刊された児童書「シンバと森の戦士の国」が、マウマウ団を正しく「独立のために戦った戦士」として描いていることを高く評価している。
 実際に僕は1967年(中学1年)の時にこの「シンバと森の戦士の国」という児童書を読み、マウマウ団が「独立の英雄」であることを知った。同時にイギリスによるケニア植民地支配の実態とケニア独立戦争の経緯についても知ることができた。そしてエリザベス女王死去に際してのケニアの人々の反応を知った時、真っ先にこの本を思い出したのだ。
 
 「シンバと森の戦士の国」は、先に紹介した「八月の太陽を」と並び、小学生・中学生に対して「黒人差別」や「植民地支配」の現実をきちんと教えてくれる優れた児童文学として高く評価されるべき本であるし、1960年代にこうした作品を書いた乙骨淑子や野間寛二郎といった児童文学作家についても、もっと高く評価すべきだと思う。特に野間寛二郎は、「慶大予科在学中,治安維持法違反で逮捕,投獄される。戦前は改造社,戦後は岩波書店で編集に従事。アフリカの研究につとめ,とくにアンゴラ,ローデシアなどの独立運動,南アフリカの人種差別の実状を紹介した。昭和50年2月5日死去。62歳。兵庫県出身。著作に『差別と叛逆の原点―アパルトヘイトの国』」(コトバンクより)…という経歴を見ても、「シンバと森の戦士の国」が単なる児童文学に留まらない内容を持っていることがよくわかる。

 自分自身のことを思い起こせば、「黒人差別」や「植民地支配」、さらにもっと広い意味での「人種差別」「民族差別」「社会階層差別」などについて本格的に書物を読むようになったのは、高校時代以降である。フランツ・ファノン「黒い皮膚・白い仮面」あたりから始まる「ポストコロニアリズム」関連書籍などは、若い頃からかなり大量に読んでいる。しかし、小学校高学年から中学低学年というまだ社会に対するスタンスやモノの見方が固まらない時期に、児童文学書によって「学校で教えない世界史」「様々な歴史的事実」を知ることが、その後の思想的な展開と発展、ひいては人間形成に大きな影響を及ぼすことを、あらためて考えた次第だ。

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