見出し画像

真夜中のカーボーイ ~いつか見たアメリカの光景


■アメリカへの憧れ

 「アメリカ」という国の存在は、僕らの世代にとっては「愛憎半ばする」部分があった。
 1978年に芥川賞を取った村上龍「限りなく透明に近いブルー」は、1970年頃の福生の米軍ハウスが舞台となっている。そこで描かれた「ドラッグとセックス」は、「サマー・オブ・ラブ」に始まるヒッピー文化が最も早い段階で日本に具現したエリアとしての米軍基地周辺の存在を知らしめた。1970年頃は福生や入間など米軍基地周辺に大瀧詠一や細野晴臣、小坂忠など多くのミュージシャンやクリエーターが住んでいた。福生だけではない。柳ジョージは横浜・本牧で基地の近くに住み「FENCEの向こうのアメリカ」「青い瞳のステラ」などの名曲を作った。60年代の終わりから70年代の初め頃、アメリカの文化、音楽、サブカルチャーに憧れ、影響を受けた日本の若者がいかに多かったかを物語っている。
 一方で60年代から長く続いた砂川闘争や沖縄返還運動、ベトナム反戦運動、安保闘争などの中で、アメリカは「米帝(米帝国主義)」と呼ばれ、異議申し立て運動に参加する多くの若者の憎悪の対象であり、否定すべき政治と社会の象徴でもあった。
 
 そんな世代の僕が、「アメリカの光景」に憧れを持ったのはいつ頃からだろう。最初にアメリカの光景に漠然とした興味を抱いたのは、おそらく小学生の頃に見たアメリカのTVドラマだ。60年代には日本のTV放送で「ルート66」「三ばか大将」「トワイライトゾーン」「コンバット」「奥様は魔女」などが放映された。白黒TVの画面に映し出されるアメリカの一般家庭の様子、例えばソファが置かれた広いリビング、大きな冷蔵庫などを、まるで別世界のことのように見ていた。
 そしてこうしたTVドラマで見る日常生活の光景だけではなく、広く都会・街や郊外の「風景」とそこに暮らす人々の日常の営みに魅入られたのは、やはりアメリカを舞台にした映画、それも主に高校時代以降に見た「アメリカン・ロードムービー」だ。「俺たちに明日はない」「イージーライダー」「スケアクロウ」「ハリーとトント」「ペーパームーン(本稿を書いている時にテイタム・オニール他界のニュースを見た。合掌!)」「バニシング・ポイント」、さらに少し後になるが「カリフォルニア・ドールズ」「スタンド・バイ・ミー」など、主人公がアメリカ大陸を旅する数々の映画だ。
 ニューヨークやシカゴ、サンフランシスコなど大都市の喧騒、エスニックタウン、郊外の街並み、大都市を結ぶ幹線道路(国道)と国道沿いに並ぶガソリンスタンドやモーテル、国道沿いに拡がる砂漠や荒れ地、地方の小都市の街並み、田舎町と田舎道、砂漠や荒れ地…など、地方都市に住む平凡な高校生故に、行きたくてもいけないアメリカという国が見せる「多彩な顔」に魅了された。

■映画の中のアメリカ

 そんな「アメリカの光景」を、最初にリアルに見せてくれた映画が「真夜中のカーボーイ」だった。
 「真夜中のカーボーイ」は1969年の映画だが、初めて見たのは封切りから数年か経った、高校2年の時だった。今でもよく覚えているが、朝日新聞主催の「江藤淳講演会」に申し込んだのだがきっかけだ。この講演会は、講演終了後に「真夜中のカーボーイ」の上映が行われる…ということになっていた。抽選に当たって講演会に行った僕は、江藤淳の講演の後半をほとんど寝て過ごし、その後で見た「真夜中のカーボーイ」には衝撃を受けて興奮しながら帰宅したのを今でも鮮明に記憶している。
 この映画、主演の2人がアカデミー主演男優賞にノミネートされただけでなく、作品自体も数々の映画賞を受賞しており、映画の内容についての評価はほぼ固まっている。また、実際に見た多くの人が、数々のアメリカン・ニューシネマの中でもベストに近い評価をしている。イギリス人の監督ジョン・シュレシンジャーの第3作目だったか、ともかく彼の出世作でもある。
 
 有名なストーリーについては、ここでわざわざ書くまでもない。都会で金持ちの女の相手をすれば食べていけると信じて、テキサスから長距離バスでニューヨークへやって来た主人公のジョー・バック(ジョン・ボイド)と、都会の片隅でドブ鼠のように生きる片足が不自由で病んだ小男ラッツォ(ダスティン・ホフマン)の、不思議な友情の物語だ。背景は一貫して、当時のニューヨークという大都会の風俗であり、公民権運動やベトナム反戦運動の高揚が去った後のアメリカの、多少気だるく退廃的な雰囲気がする時代の空気感だ。そういえば、「X指定」の成人映画に指定されながらアカデミー賞を受賞した唯一の作品でもある。
 この映画を評価するとき、「60年代末期のアメリカ、そしてニューヨークの混迷した雰囲気を活写した」とか、「病めるアメリカの生態をリアルなタッチで描いた」など、一定のスタイルが出来ているようだ。そして「ジョーとラッツォの切ない友情に感動した」という素直な評価も多い。あのラスト・シーン、バスの窓から見えるマイアミの景色を背景に死んでいくラッツォと、泣きそうなジョーの姿は、誰もが印象的な場面として記憶していると思う。

 でも僕は、この映画で初めて「アメリカという国の実際の姿」を見たように感じ、「ニューヨークという街」にも憧れた。映画のストーリーや、時代背景、主人公2人の友情などに感動したというよりは、「初めて見るアメリカの光景」に見入ってしまった。むろん、それまでにも日本で放映されたアメリカのTV番組や、「真夜中のカーボーイ」以前に見た数少ないアメリカ映画「卒業」「俺たちに明日はない」など、そして音楽雑誌に掲載された写真などでアメリカの風景は何度も見ていた。アメリカが舞台の小説もたくさん読んでいた。ベトナム反戦デモのニュース映像、ヒッピー文化の紹介番組、そしてボブ・ディランやザ・バンドの音楽などからもアメリカという国の文化、様々な側面についての知識はあった。しかし、この映画を見た時、そんな「知識としてのアメリカ」「漠然としたアメリカのイメージ」ではなく、もう「実体験」に近い状態でアメリカの姿が眼に焼きついた。
 
 映画の舞台はニューヨークだが、ジョーがニューヨークに着くまでの部分、ジョーの故郷の田舎町の風景や移動中のバスの車窓の風景も印象的だ。主題歌「うわさの男(Everybody's Talkin')」はフレッド・ニールが作曲、ハリー・ニルソンが歌っている。冒頭のテキサスの田舎街(テキサス州のビッグ・スプリング)の街並みやレストラン、主題歌をバックに長距離バスの座席に座るカーボーイ姿のジョー。そして、モーテルの看板が並ぶ南部の国道をバスが走るシーン、夜になってバスの窓の外を流れる国道沿いのレストランやモーテルのネオンサイン、乗り降りする様々な乗客の姿、ニューヨークに近づいて、主人公が手に持っているラジオにニューヨークの局が入ってくるシーン、そしてニュージャージーから見えるマンハッタンの摩天楼、そこには、1970年着工のワールド・トレードセンターの姿はまだない。初めて「真夜中のカーボーイ」を見たとき、もうこのあたりからスクリーンに眼が釘付けになっていたことを思い出す。
 
 僕は、高校時代にこの映画を見たおかげでアメリカに憧れ、映像を追体験したくなり、そして結果的には20代の何年かをアメリカ、ニューヨークで過ごすことになった。当時グレイハウンドバスに乗ってアメリカ大陸を放浪した時、バスの座席でいつも頭に浮かんでいたのは「真夜中のカーボーイ」という映画の中でバスが走るシーンであり、冒頭のシーンだけでなくマイアミへと向かうバスの姿だ。自分がジョン・ボイドが演じたジョーになったような気持ちで乗っていた。

■そしてニューヨークへ…

 僕は、1970年代には現在のトライベッカ(当時はトライベッカの名称はなくただのロワーウェストサイドの一部だった)に住み、そして1982~83年にかけては、タイムズスクエアの近くやブルックリンに住んだ。当時はまだ、タイムズスクエアからほど近い7~8thAVの西側一帯、ヘルズキッチンあたりにも、映画の中でラッツオとジョーが違法に住んでいたような、市当局によって閉鎖された廃墟のような建物がたくさんあった。むろん、ミッドマンハッタン以南のイーストヴィレッジより東側や、逆に7thAVよりも西側などは、廃墟のような古いビルばかりだったと記憶している。今はしゃれた街になった、アルファベットアベニュー一帯とかチェルシーあたりは、夜は怖くてとても歩けない街だった。映画の中で、ラッツオとジョーが金網を開けてビルに入っていくシーンが何度も出てくるが、同じように棲んでいる人をたくさん見かけたものだ。
 ニューヨークに到着したジョーが、最初に泊った安ホテル(今は無いが7thAVにあったクラリッジホテルとのこと)の佇まいも懐かしい。マンハッタンはむろん、地方都市にもあんな雰囲気のホテルがいっぱいあった。アメリカをバスで放浪している時、バスディーポの近くに多い似たような安ホテルによく泊まった。どこも室内には映りの悪いおんぼろテレビしかなく、テレビ台の下の引き出しに擦り切れた聖書が置いてあった。
 さらに、ラッツオとジョーが住んでいたビルの窓からチラッと見える光景もたくさん記憶にある。当時のマンハッタンのちょっと高いビルの窓からは、それよりも低いビルの薄汚れた屋上の連なりがよく見えた。1983年に僕が住んでいた安ホテルの7階の部屋の北側の窓から毎日見ていた光景だ。大きな貯水タンクがある屋上はどこも汚く、屋上自体がホームレスのねぐらになっていたところもあった。
 そして映画の中の主舞台にもなっているタイムズスクエア周辺も、80年代初め頃まではまさに映画に出てくる通りの街だった。おしゃれな店もあったが、逆に安いコーヒーショップやジャンクフード専門のダイナーもたくさんあり、電気製品やカメラを売る怪しげな店が立ち並んでいた。
 私が1983年の夏に何ヶ月か過ごした長期滞在者用の安ホテル「Times Square Motor Hotel」は、7thAV、43stの角にあった。華やいだブロードウェイの劇場街からは、わずか2ブロック南だ。現在そのホテルはないが、タイムズスクエアの中心部から200メートルぐらいしか離れていないにも関わらず、周辺はとても汚いところで治安も悪かった。安いドーナツショップやダイナーが何軒も並び、映画の中でジョーがケチャップをこぼしたような安ダイナーで、僕も何度も食事をしたものだ。今は華やかな42ndSTなどは、ポルノショップと覗き専門店(25セントで個室から一定時間女性の裸を見る店)」、XXX専門映画館が立ち並ぶ猥雑な通りだった。
 
 そんな雑然としたニューヨークに住んでいたが、それはそれで何とも言えない「活気」も感じていた。アルファベットアベニューあたりに先端的なクラブが開店するという小さな告知広告をヴィレッジボイスで見て行ってみると、映画の中でラッツオとジョーが紛れ込んだような怪しげなパーティが繰り広げられており、夜が更けるに連れて、集まった得体の知れないアーティストやミュージシャンたちがマリファナを回しながら様々な議論をしていた。気だるく下手なパンクロックのグループが演奏する中で、朝までウロウロしていたことを思い出す。芯まで冷える冬の夜、「タクシードライバー」に何度も出てくるように、道路のあちこちのマンホールから湯気が上がる幻想的な光景の中、クラブからクラブへと彷徨い歩いた時間を僕は忘れられない。当時僕が夜ごと徘徊していたウェストヴィレッジやイーストヴィレッジの名もない小さなクラブは、ベトナム戦争後の閉塞感が漂う社会の中で、新しい時代のアートや音楽を作り、捜し求める人たちの熱気で溢れ返っていた。街全体が危険で猥雑だったマンハッタンは、危険で猥雑ゆえの活気に満ちていた。

 「真夜中のカーボーイ」という映画の中で描かれたマンハッタン、それこそが、10代の僕が憧れ、そして20代で体験したアメリカの姿そのものであり、それを僕は "病んでいる"と感じたことは一度もない、僕はきれいになった現在のニューヨーク、そして現在のアメリカの方が、よほど病んでいるように感じている。1980年代に入って、「I Love NewYork」の観光キャンペーンが始まり、レーガン政権下でニューヨークの治安向上と美化が推進されて以降、逆にニューヨークは活力と魅力を失い、結果として逆に「病が進んでいった」ような気がする。
 新しい文化は「混沌」から生まれるものだ。そして文化を揺籃する「都市の混沌」とは、「危険、猥雑」を抜きに語ることはできない。高校生の時に見た「真夜中のカーボーイ」という映画は、穏やかな地方都市で育った僕に「危険で猥雑な大都市」の姿を見せてくれた。それは、当時衰退しかかっていた学生運動なんかよりも、もっと魅力的で甘美なもので、「自分の中に何かを生み出しくれる基盤」となりそうな予感がしたのだ。

 そういえば、アメリカで初めて長距離バスに乗ったのは、ニューヨークの8thAVにある「ポート・オーソリティ・バスターミナル」からだ。あそこは、夜になると周囲はゲイの街娼だらけだった。1983年の初冬、僕は99ドルで一週間乗り放題のグレイハウンドバスのチケット買った。ジョーとラッツオのように南へ行こうと思った。でも、乗ったバスは何故かマイアミ行きではなく、ニューオリンズ行きだった。バスターミナルの地下の乗り場から発車したバスが、33時間後に到着する予定のニューオリンズへ向けて、夕暮れのマンハッタンを後に南へ向かって走り出した時のことは、今でも鮮明に覚えている。

 僕にとって「真夜中のカーボーイ」という映画は、本当の意味で「青春映画」だった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?