見出し画像

モノを書く道具(1) ~僕の「駄文書き散らし生活」の変遷

 「読む(読書)」ことの話を書いたので、今度は「書く」ことの話を書こう。まずは40年以上前、1980年代半ば頃の話からだ。


■Ubuntu(linux)+テキストエディタ

 さて、このnoteに投稿している皆さんは、いったいどんな道具を使って文章を書いているのだろうか? 推測に過ぎないが、ボリュームのある長い文章、作品をたくさん書く人はパソコンとワープロソフトを使っている例が多く、短めの文章、雑文を投稿している人はスマホやタブレットで書いている例が多いのではないだろうか。おしゃれに(皮肉だ)、スタバでMacBook Airを広げて創作している人も多いかもしれない。かく言う自分は、基本的にはパソコンを使って文章を書いている。個人的な執筆にワープロソフトを使うことは少なく、大半はテキストエディタを使って書いている。

 僕は1980年代からソフトウェア開発とコンサルティングを主業とする小さな会社を自営しており、オフィスにはたくさんのパソコンやモバイル端末が転がっている。Windows機が多いが、アプリ開発やDTP、デザイン、EPUB(電子書籍)制作等に使うMacもある。オフィスでの個人機はとりあえず比較的新しいWindows機で、僕個人はコーディングやDTPや電子書籍制作などの作業はしないので、このWindows機で主にMicrosoft officeのWord、Excel、Powerpointを使って、企画書を作ったり、統計処理をしたり、アプリ用のコンテンツを書いたりといった仕事をしている。

 一方で、自宅ではデスクトップPCを2台とノートPCを2台使っている。主に執筆作業(駄文書き)に使うパソコンは、全てプアなスペックの古いマシンだ(いずれも中古で買えば2~3万円程度で購入できるはず)。光回線をひいているので、デスクトップ機は有線LANでネットに接続、ノートPCは無線LANでネットに接続している。書斎を兼ねた自室に設置した2台のデスクトップ機のうち1台だけは、持ち帰った会社の仕事をしたり在宅作業をするためのWindows機だ。これは動画編集や画像処理も可能なスペックを持つWindows11搭載のほぼ最新機種だ。これはデジカメで撮影したRAWデータの現像などにも使っている。そしてもう1台のデスクトップ機と主にリビングで使うノートPC(Acerの14型)、モバイル用軽量ノートPC(2012年発売の東芝「dynabook R632」:約1.1g)の3台は、OSとしてwindowsではなくUbuntuが動作している。いずれも主に文章を書くために使っている。3台ともに会社で日常業務に使っていたもので、古くなってお払い箱にした10年以上前(2012~2013年発売)の古いPCだ。どれも第4~第6世代のCorei5に16GBのメモリ(裏技で増設したR632は8GB)という、今となってはとても貧弱なスペックのマシンだ。デスクトップ機のHDDはSSDに換装してあり、古いCPUと8~16GBのメモリでも、OSがUbuntuならば軽作業を行うには十分な性能を発揮する。音楽も聞けるし動画も見られる。ましてやテキストエディタや軽いワープロを使うだけなら、オーバースペックと言っていい性能だ。起動も速いしサクサクと動く。
 文章を書くために使っているソフトは、Ubuntuをインストールした際にプリインストールされるLibreOfficeのWriterと、軽くてシンプルなテキストエディタ「Leafpad」(個人的にはとても使いやすい)だ。両者を適宜使い分けている(ちなみに「Mery」もおすすめだ)。これらのパソコン以外にAndroidタブレットを複数台所有しており、これらは電子書籍リーダーとして使う以外に、小型のbluetoothキーボードを接続して、1.1kgのモバイルPCですら重いと感じるような散歩時などに持ち出して書き物をするのにも使っている。たまに喫茶店やファミレス、居酒屋などで書き物をしたくなることがあるのだ。MacやiPadは、職場以外では使っていない(理由はいずれ書く)。パーソナルな執筆環境は、デスクトップもモバイルもほぼUbuntuで、時々Androidを使うだけだ。

 ともかく、「Ubuntu(linux)+テキストエディタ」の組み合わせは最強だ。チープな古いパソコンでもサクサクと書ける。文書作成がメインで、簡単な表計算、メール送受信やネット検索・閲覧、Youtube鑑賞などの軽作業中心で使うなら、10年前の中古パソコンにUbuntuをインストールすれば十分だ。もしPCのスペックがさらに貧弱なら、Ubuntuよりも軽量のLinux「Lubuntu」もある。実際に、AtomプロセッサでRAMが2GBの古いネットブック(2008年発売)にLubuntuを入れてみたら、少なくともテキストエディタは普通に動くので軽量ワープロとしては十分に使える。もし古いPCのストレージがHDDならSSDに換装すればいい。500GBのSSDなら3~4千円で買える。とりわけ僕のような老齢の物書きには、重いOS、WindowsもMacOSもいらない。SDGsが声高に叫ばれる昨今、バカ高いMacBook Airなど買う必要はない。

■「書く」ということ

 僕は読書も好きだが、文章を書くことも好きだ。本業としてライターをやっていた時期もあるし、長くソフトウェア開発会社を経営していることもあって、技術書を書いたり、雑誌に寄稿したりする機会も多かった。本名(「山下健一」ではない)名義では、何冊かの著書が発刊されている。一時期は、何誌かのパソコン雑誌に連載も持っていた。むろん、こうした「他人が読むことを前提とした文章、仕事として依頼された文章」を書く時には、当然の話だがじっくりと考え、推敲した文章を書き、言葉ひとつ、用語ひとつの使い方を吟味し、そしてきちんと校正もする。
 一方で、目的もなく趣旨も適当な駄文を書き散らすことも大好きだ。まさに、このnoteに投稿している状況がそれだ。僕は「饒舌」ならぬ「饒筆」で、誤字・脱字や文意文脈の整合性などを適当に無視して、長文を書き散らす。今この瞬間に本稿を読んでいる人ならわかる通り、誤字・脱字だらけのひどい文章を書き散らしている。こうして書き散らす駄文にテーマは全くない。時事問題や政治向きの話はほとんど書かない。だいたいは、旅、本、音楽、映画、料理、居酒屋放浪、バイク、カメラ、コンピュータ、ラジオなど、趣味や日常生活の話が中心だ。プロの書き手でもあった自分だが、特に文章が上手いとは思ってはいない。しかし論理的破綻がない文章を書くことは出来る…とは自負している。しかし現実には、駄文書き作業の大半はPCの前で缶チューハイを飲みながら書いているため、酔ってくると話があちこちに飛んで論理的に破綻をきたす。長々と書いているうちに、趣旨が変わってくる(本稿もそうだ)。そして時々は「嘘」や「思ってもいないこと」も書く。それはそれで一向に構わないと思っている。いずれにしても僕の駄文書きは、「創作活動」とは無縁のものだ。
 
 現在の僕にとって「書く」ことは、自分の頭の中、つまり「思考」を少しずつ「吐き出す」ことだ。僕は、刻々と変化する「思考」を適宜吐き出していかないとストレスが溜まる。ストレス発散のために書いているようなものだ。そして年を取った最近は、「記録」つまり「記憶を残す」ことも書くことの目的の1つになっている。若い頃の自分の体験の記憶を「自分のために記録」する。ともかく、他人に読んでもらえるかどうかは、基本的にどうでもいい。自分の書いたものが、他人から賛同を得られるどうかはほとんど興味がない。僕が書いた文章が気に入らなければ読まなければいい。何かを訴えることはしないし、啓蒙する気もない。文学作品を創作しているわけじゃないし、自己表現をする気などは全くない。ネット上で議論するなど面倒だ。
 
 そんな僕だが、1980年代の終わり頃からは、ネット上のいろいろなプラットフォームやコミュニティで駄文を書き散らかしてきた。古くはパソコン通信サービス「NIFTY-Serve」のフォーラムであり、インターネットが普及して以降は、文章系SNSや個人のWebサイトを作って思うことを書いてきた。「他人からの評価を気にしない」のなら書いた文章をネット上で公開する必要はないだろう…と突っ込まれれば、確かにその通りだ。でも不思議なもので、書いた文章をただPCのストレージの中やクラウドのストレージに貯め込んでいるだけというのも、なんとなくつまらない。「他人からの評価は気にしない」という言葉と矛盾するようだが、自分が書いた駄文を偶然にでも「誰かが読んでくれる」という状況を「ちょっと面白い」と思い、またそれを期待する自分がいる。世の中の大半の人にとってどうもいい内容の駄文を書いているにも関わらず、それを読んでいる人が存在する…という状況が面白いのだ。
 また、NIFTY-Serveのフォーラムに参加していた時代(1980年代末~1990年代前半)、それに続くインターネットを使ったコミュニケーションの黎明期(1990年代後半~2000年代前半)は、まだ僕が若かった(といっても30代半ば~40代後半)時代だ。当時の僕は今ほど達観しておらず、ネットコミュニティ上での意見交換や議論などをさほど面倒だとは思っていなかったし、自分の考えを誰かに知ってもらいたい欲求もあった。先に書いたよう「…僕が書いた文章が気に入らなければ読まなければいい。何かを訴えることはしないし、啓蒙する気もない」…と言い切るまで達観したのは、ここ15年くらい(50代以降)のことだ。だから、2010年頃までは自分で作ったWebサイトを運営していたし、他のネットコミュニティでもそれなりの頻度で発言していた。
 
 2000年代に入ってすぐ、Mixiにはじまり、Facebookやtwitter、TumblrなどのSNS系コミュニケーション・プラットフォームが登場した時、自分も一通りアカウントを作って投稿を試みた。しかし結局どれもあまり使うことなく、個人Webサイト中心の投稿生活に戻った。
 僕はこうしたSNSが肌に合わない。まず、twitter(X)などは投稿を読んだ人からの反応が速くダイレクトで、いつもタイムラインを気にしていなければならない。投稿内容に反対意見を持つ人と賛同する人が、コメント欄で勝手に議論を始めてしまったりするのが面倒くさい。見ず知らずの読み手の反応に対して、いちいち返すことはしたくない。先に書いたように、今の僕は自分が書いた内容に対する他者の反応など、ほとんど関心がないからだ。別に自分の投稿に対する賛同を求めていないし、反対意見があっても結構だが、議論は嫌だ。読み手のことを考えずに「書きたいことを書きたいように書く」…という僕のスタイルは、SNS向きではない。またSNSというのは、本質的にだらだらと長文を書くのには向かない。文字数に制限があるtwitterはむろん、Facebookでも本稿のような内容を投稿する雰囲気ではない(むろん商売上必要なビジネスアカウントは使っているが…)。
 ちなみにInstagramだけは現在進行形で何年も続けている。僕は写真を撮ることが好きなので、日常撮った写真を投稿するために使っている。写真投稿がベースのInstagramは、twitter(X)のような密度の濃いコミュニケーションが成立しにくく、議論にならないところがいい。
 
 とうに還暦を過ぎた現在の僕は、SNS上で「私的なコミュニティ」が形成されることを好まない。これは実生活でも同じだ。頻繁に通う居酒屋でだって、常連が集まって常連だけの世界を作り上げているような雰囲気を好まない。話をするのは嫌いではないが、あまり踏み込んだ付き合いは面倒だ。
 僕が文章を書くのは、「自分の意見や考え方を他人に知ってもらいたい」という理由ではない。ましてや、自分の考えた方に賛同する人同士で群れたり仲良くしたりする気もない。こんな性向で、なおかつ「書くことが大好き」な自分には、書きっ放しができる個人Webサイトへの投稿がいちばん向いている。
 むろん、ネット上で駄文を公開するにあたっては、ネットで守るべきルールは心得ている。「嘘も書く」とは言っても、フェイクニュースなどは絶対に書かないし、他者を攻撃もしない。そして自身のプライバシーは隠す。だから、このnoteを含めて最近の投稿は全てペンネームで書いている。 

■執筆環境、執筆道具の変遷 ~1980年代の話

  僕は、ともかく大量の文章を書く。「書く」というよりも「書き散らす」と言った方がいいかもしれない。僕が「多読」「乱読」「速読」であることはこのnoteで書いているが、それに加えて僕は「多筆」「乱筆」「速筆」でもある。だから、僕にとって「書く道具」というのは非常に重要だ。特に「速く大量に書く」ことにこだわりがあり、快適に書き続けるために、システムの処理速度はむろん、キーボードのタッチ、ディスプレイの表示性能、ソフトの機能と操作性、FEPの学習・変換能力などには徹底的にこだわっている。
 
 パソコンのワープロソフトやワープロ専用機で文章を書くようになったのは、約40年前、1980年代の半ば頃からだ。1981年にサラリーマンをやめてしばらくフリーライターをやっていた頃は、入稿は手書き原稿だった。愛用の0.9ミリ芯のシャープペンシル(プラチナ・プレスマン:驚くことに今も売っている)と200字詰め横書きの原稿用紙が、唯一無二の執筆道具だった。
 ニューヨーク在住から帰国した1983年に大枚をはたいて個人でPC-8801mkIIを購入した時、パソコンとワープロソフトを使って書いてみようと思い立った。そこで別売の漢字ROMと熱転写プリンタも購入、8801用のワープロソフト「ユーカラ」を使って日本語入力と文章作成を始めたが、「ユーカラ」には連文節変換機能などはなく、はっきり言って長い文章を書く道具としては全く役に立たたなかった。
 
 直後の1984年に、僕は独立起業した。会社を立ち上げると同時に仕事で本格的にパソコンを使い始めた。PC-9801M2を2台購入し、表計算ソフト(マルチプラン)と連文節変換のワープロソフト、管理工学研究所の「松」を導入、さらにパソコン通信で取引先とデータのやり取りを始めた。コンサル系の仕事で毎日のように大量の企画書や調査レポートを作っていたので、ワープロソフトによる文書作成にはすぐに慣れた。手書きからキーボード入力への移行は意外とスムーズに実現し、手書きによる文章作成はしなくなった。自宅でもワープロソフトを使いたいと思ったが、この時点ですぐに職場の環境を自宅に持ち込むことはできなかった。1984年頃に自宅で職場と同じシステムを揃えるには、機材があまりにも高価過ぎた。当時PC-9801M2が40万円超え、エプソンの24ドットのドットインパクトプリンタ(プラスJIS第2水準漢字ROM)が30万円、ワープロソフト「松」が十数万円、そして1200bpsモデム、それだけ100万円近く掛かった。当時はなけなしのお金を次ぎこんで会社を立ち上げたばかり、さらに子供が生まれた直後でお金がなく、狭い戸建ての借家に住んでいたこともあって、100万円以上するパソコン一式を自宅用に購入するのは躊躇われた。ちなみに当時、ローンを組んで新車で購入したバイク、ヤマハSR500が35万円ぐらいだったと記憶している。
 
 しかし、一度キーボードで書くことに慣れるともう絶対に手書き環境には戻れない。それで、その頃から劇的に値段が下がった(と言っても十数万円はした)ワープロ専用機を自宅用に購入した。最初に買ったのは、デスクトップ型のキャノワード30だと記憶している。そして翌1985年末にはワープロ専用機を妻(当時経理の仕事をしていた妻は職場で「オフコン」を使っていた)に譲って、自宅用にもPC-9800を購入してワープロソフトで文章を書き始めた。ワープロソフトは、「松」よりも劇的に低価格(確か59,800円)になった連文節変換が可能なJustsystems「一太郎」だ。これで、とりあえず職場でも自宅でもデスクトップ環境ではワードプロセッサで文章を書ける環境が整った。
 
 1985年頃というのは、仕事で国内外への出張が多くなった時期だ。それゆえに、この頃から「持ち歩いて文章が書けて通信機能も備えたコンピュータ」つまり「常時可搬型執筆道具」を、何とか実現しようと考えた。場所を問わずモノを書くための道具として、「ハンドヘルドコンピュータ」、今で言うところのノートパソコンが欲しくなったのである。
 当時のTVニュースで、世界中から取材記者が集まるようなイベントで、記者がハンドヘルドコンピュータで原稿を書き、それを公衆電話からテレフォンカプラ(音響カプラ)で送っている場面をよく目にした。彼ら海外の取材記者たちが使っていたのは、Tandy「TRS-80 Model 100」かOlivetti「M-10」だったと思う。両機種とも実は同じ製品で、京セラのOEM製品である。これを日本でNECが販売したのが、「PC-8201」だ。確か1984年の秋に晴海のコンピュータショーでPC-8201の実機に触れて、どうしても欲しくなった。発売当時の価格は138,000円と、それほど高くはない(ニッカド電池パックやワープロROMカートリッジを加えると20万円を超えたが…)。で、結局PC-8201を購入した。色はワインレッドだ。カッコよかった。
 当時、ハンドヘルドコンピュータの走りの機種として売れていたエプソン「HC-20」の後継機「HC-88」(漢字ROMや辞書ROMがありディスプレイも大きめだった)の購入も考えたが、結局は仕事で使っていたPC-9801との親和性も高く、簡易日本語ワードプロセッサ(ROMカートリッジ)を使えば原稿書きにも使えそうと思い、PC-8201を買った。そのPC-8201はA4サイズの筐体で、40桁×8行(グラフィックは240×64ドット)の液晶ディスプレイ(モノクロ)とキーボードが一体となっている。重量は1.7kgと十分に持ち運べる。単3乾電池を4本、またはニッカド電池パック(別売で35,000円)を利用すれば最大で18時間駆動するので、当時新幹線で日帰りの大阪出張をする時など、往復の乗車時間は十分に使えた。移動先からのデータ通信は、むろん公衆電話から音響カプラで行った。
 
 ただし、勇んで購入したこのPC-8201、買った当初は面白がっていろいろと使ったが、肝心の日本語ワードプロセッサが機能的に長文を書くのには全く向いておらず、「常時可搬型執筆道具」」としてはほとんど役に立たなかった。海外の記者がTandy「TRS-80 Model 100」で原稿を書き、それを公衆電話から音響カプラでかっこよく送っていたのは、それがあくまで「英文の原稿」だからであり、日本語で同じことが出来るマシンではなかったということだ。それで、1986年になってやむなく購入したのが「PC-98LT」である。640×400ドットの液晶ディスプレイを持ち、JustsystemsのPC98LT専用のワープロソフトで「一太郎」系列の「サスケ」を使うことで、デスクトップPCとほぼ同じレベルで長文のライティングが可能だった。ただし、このPC-98LTは重量が3.8kgもあり、カバンに入れて日常的に持ち歩くには大きな負荷が生じた。それでもビジネス上必要な時に限って、無理して国内出張時などに持ち歩いたが、仕事には使えても「常時可搬型執筆道具」の理想とはかけ離れたシロモノだった。
 
 1980年代後半から1990年初頭にかけて、国内のパソコン市場はPC-9800シリーズとその互換機の全盛時代が続いた。世界的に見ればIBM PC互換機がパーソナルコンピュータ市場の標準であったにも関わらず…である。国内市場でも1980年代末にそのIBM PCをベースにした「AXパソコン」が登場したが、PC-9800シリーズの牙城を崩すことなく90年代初めに市場から消えた。自分の会社では、DTPシステムが登場した直後の1987年頃からMacintosh用ソフト(周辺機器のドライバ等)の開発をスタートし、複数台のMacを導入した。しかし、日常業務及びコンサル系のビジネスは全てPC-9800で行っていた。この1986~7頃からPC-9800とその互換機でラップトップ型のPCが何種か発売されたが、持ち歩けるような軽量機種はなかった。この時期はワープロ専用機も低価格化し、家庭用に小型化された様々な機種が登場したが、いずれもプリンタ・FDD一体型で、毎日持ち歩けるほど軽量化された機種は発売されなかった。通信機能を備えた機種もなかった。この1980年代半ば頃は、キーボードでまとまった文章が書けて通信できるのは事実上デスクトップ環境のみで、モバイル環境での文章作成・通信機能は簡単には実現しなかった。結局のところ、この時期には「常時可搬型執筆道具」に巡り合うことはなかった。
 この状況が個人的に大きく動いたのは、1980年代の終わり頃のことである。 

■エプソン「Word Bank note2」の衝撃

  原稿書きが手書きからキーボード入力に変わって4年目、1988年(1989年だったかも)にエプソンから「Word Bank note2」という「ワープロ」が発売された。データショーの会場か何かで、この機種を実際に手にとって、初めて「持ち歩いてモノを書く道具」に巡り合ったと感じた。
 このWord Bank note2についてて本稿を書く際に調べていたら、実はその発売前年にWord Bank note2の前機種である「Word Bank note」が発売されていたらしい。しかし何故かこの前機種が発売されたという記憶がほとんどない。1987~8年というのは、仕事でも個人でもMacintoshをはじめATARIやAmiga、そしてシャープX68000など、いわゆる68000系プロセッサを搭載した「ビジュアルシェル・パソコン」に夢中だったので、「持ち歩くパソコン」に対する関心が、一時的に影を潜めていたのだろう。
 
 ともかく、このWord Bank note2が、僕にとって記念すべき初めての「常時可搬型執筆道具」になった。Word Bank note2は、A4サイズのノート型ワープロだ。形状はフラットで、重量はたった1.2kg、単三乾電池4本で10時間程度動作する。Word Bank note2は、パソコンやワープロ専用機の端末として使うことを目的に、従来のワープロ専用機からFDDとプリンタを外し、代わりにプリンタインターフェースとRS-232Cインターフェースを内蔵、パソコンと通信が可能なモバイル端末として発売された。そして価格が驚くほど安かった。定価は確か79,800円で、実売価格は5万円台だった。むろんワープロとしての機能も優秀で、漢字ROMを内蔵して、仮名漢字変換もスムーズだった。そして何よりも、本気で毎日持ち歩ける1.2kgという重量がよかった。この重量にも関わらず、フルサイズに近いキーボードを持ち、キータッチは柔らかめながら、一定のストロークを持っている。ディスプレイ部を折り畳み型にするのではなくボディ一体型を採用したおかげで液晶表示は小さかった。確かに5行表示では長い文章作成には向かないとも言えるが、それすらも初めて実現した「突出した可搬性」と「フルサイズキーボード」の持つメリットの前には、たいしたデメリットとは感じられないぐらいの優れたマシンだった。単三電池による動作もよかった。予備の電池さえ持っていれば、旅先での使用にも不安はなかった。僕はこのWord Bank note2を2台購入し、購入してから1990年代頃までの2年間ほど、ほぼ毎日持ち歩いて使い続けた。
 ところで、本稿を書くにあたってWord Bank note2についてネットを検索していたら、僕と同じように「画期的な端末」「エポックメイキングな端末」として高く評価している人がかなりたくさんいた。中には購入後10年以上使い続けたという人もいて驚いた。

 次いで1990年に入った直後に、NECから発売されたA4サイズノート型ワープロの「文豪mini5 CARRYWORD EX」を購入した。通信機能、標準サイズのキーボードを備えていながら、A4サイズで重さ1.4kg、厚さ30mmのマシンで、十分に「常時可搬型端末」として使えた。何よりも、折りたたみ型で40字×11行の液晶画面を備えていたのが大きい。操作性もよく、3.5インチFDD内蔵のドッキングステーションを使えば本体に入力した文書(1,000字/頁✕10頁まで作成可能)のFDへの書き込みができた。Word Bank note2よりも、あきらかに長文作成には向いていた。それでWord Bank note2からこの文豪mini5移行しかけたが、慣れたWord Bank note2も併用する時代が続いた。こんなところが1980年代末頃の僕の「モバイル執筆環境」である。

■パソコン通信サービスの時代

  1990年代は、パソコンとそれを取り巻く環境が激変した時代だ。90年代には、大きく次のことが起こった。
 
・インターネットの普及
・Windows95の登場によるDOSからWindows環境への急速な移行
・DOS/Vマシンの普及によるPC-9800の衰退
・モバイルPCの登場(東芝「Libretto」登場の衝撃)
・入稿、組版の電子化とDTPシステムとの統合
 
 こうした出来事によって僕の執筆環境・執筆道具も劇的に変化するのだが、これらはいずれも1992~3年以降の話である。インターネットの普及は個人向け商用サービス(プロバイダ)が始まる1993年以降だし、本格的な普及はTCP/IPを標準搭載したWindows95が発売された95年以降の話だ。PC-9800を駆逐する勢いでDOS/Vマシンが普及するのも、事実上1993~4年以降である。90年代の初頭は、まだ80年代とあまり変わらない状況が続いていた。

 そして90年代の初頭という時期は、パソコン通信サービスの全盛時代である。僕の執筆活動、とりわけ「駄文書き」に大きな影響を影響を与えたのはこのパソコン通信サービス、特に「NIFTY-Serve」だ。
 NIFTY-Serveは、1987年にサービスを開始した。僕にとって、初めて「書いた文章をネット上で不特定多数の人を対象に公開する場」が出来た瞬間である。ちなみにほぼ同時にNECがスタートさせた「PC-VAN」もあったが、NIFTYとは少し雰囲気が違った。最初から有料サービスとしてスタートし、各フォーラムの責任者である「シスオペ」の選定に運営側が関わったこともあって、PC-VANよりNIFTYの方が「大人のコミュニーション空間」の雰囲気があった。フォーラムにもよるが、比較的建設的な意見交換が多かったと思う。会議室のテーマが盛り上がり、大手企業のビジネスにまで発展した案件などもあった。「オフ会」なども頻繁に行われていたが、現在SNSを契機にしてよく起こる殺伐としたトラブルなどは少なかったような気がする。ちなみに、僕の会社設立に創業時から参加してくれた女性スタッフの1人は、この頃NIFTYのフォーラムのオフ会で出会った相手と結婚した。またNIFTY上で活動した参加者の中には、その後のインターネット黎明期にネット関連事業を起業して有名になった人も多く、現在でも交流がある人が何人かいる。
 スタート時のNIFTY-Serveにはテーマ別のフォーラムが45あり、その後随時数が増えていった。各のフォーラムの中には、さらに細かいテーマ別に「会議室」があり、その会議室では誰かが書き込むとそれに対してレスポンスを付ける形でツリー型の会話が展開した。他にチャットもあった。「ネット上で不特定多数の人と会話する、意見を交わす」という現在では当たり前の「ネット上の文字コミュニケーション」を、パソコン通信サービスで初めて体験し、夢中になった人は多いと思う。
 
 僕にとってのNIFTY-Serveは、単なるネットコミュニケーションの場であっただけでなく、「意見」や「駄文」を公開する場でもあった。当時僕がどのフォーラムでどんな活動していたかは、ここでは書かない。書くと「身バレ」する可能性があるからだ。個人的な話としてではなく一例を挙げれば、今ではラノベ(ライトノベル)ブームの先駆けとなったと評価されている「SFファンタジー・フォーラム」や、プロのミステリー作家も参加していた「推理小説フォーラム」などでは、参加者の「創作」が公開され、互いに批評し合うような場が存在した。
 まあ、当時のNIFTY-Serveがどのような「場所」であり、何が起こっていたかについては、ネット上に山ほど体験談が公開されている。当時のネットコミュニティについて熱く語っている人も多い。僕などがこれ以上詳しく書く必要はないだろう。ともかく、当時の僕にとって、書いた駄文を公開する場としても、駄文を量産する動機としても、NIFTY-Serveが貴重な場所であったことは確かだ。
 
 さて飲みながら適当な話を書いていたら、この駄文もそろそろ1万字を超えそうだ。いや、もう超えたかもしれない。ここらで一区切りつけて、さらに書こうと思っていた「1990年代に起きた執筆環境・執筆道具の劇的な変化」については、後日続きを公開しようと思う。

  モノを書く道具(2) ~1990年代の「駄文書き散らし生活」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?