義経と四十二巻の兵法書

源義経を主人公とする説話には、「義経が中国伝来の兵法を習得」した語るものがあります。

『義経記』巻二「義経鬼一法眼が所へ御出の事」では、義経が鬼一法眼から兵法の秘伝書を盗む説話が語られます。この兵法の秘伝書とは、中国から伝来したものであり、かつて周の武王を助けた太公望や、漢の高祖劉邦の功業を支えた張良・樊噲、そして日本の坂上田村麻呂、平将門、藤原秀郷らが読んだものであり、この兵法書を読むことで超人的な能力を身につけることができるとされています。

幸若舞『未来記』では、中国の「しやうざん」に住む「そうけい」という者が伝えた「三略」という八十四巻の書物がこの兵法書の原型であり、遣唐使として唐に渡った吉備真備によって日本にもたらされて四十二帖に再編され、比叡山に奉納された後、白河の印地の大将によって学ばれたと語られます。

御伽草子『天狗の内裏』古写本では中国伝来の四十二巻の兵法書と「天狗の法」が統合され、「四十二巻の天狗の兵法」に変化します。

このように、義経の物語にはしばしば中国伝来の四十二巻の兵法書が登場するのですが、実はこの兵法書は実在し、「張良一巻書」「兵法秘術一巻書」「陰符経」「義経虎の巻」等の名称で各地に所蔵されています。

『孫子』や『呉子』といった中国の兵法書は遣隋使・遣唐使により日本にもたらされました。しかし、こうした正統派の兵法書は別に、日本国内で陰陽五行思想や様々な呪術を基にした軍配兵法が成立し、鎌倉から室町時代にかけて重んじられるようになりました。

そうした軍配兵法の代表が「四十二巻の兵法書」であり、祈祷・結印卜筮などによって凶禍を除き、敵を制して勝利を得る秘術を述べたものです。

伝来として、中国の太公望や張良に由来することや、吉備真備・大江維時らによって日本にもたらされたとされていますが、こうした由来譚はこの書を権威付けるために仮託されたものであり、実際には密教の僧侶や修験者によって作成されたものと考えられます。詳しくは有馬成甫・石岡久夫編『諸流兵法(上)』(日本兵法全集六、新人物往来社、一九六七年)、梶原正昭『義経記』巻二補注(日本古典文学全集、小学館、一九八五年)、大谷節子『兵法秘術一巻書』(『日本古典偽書叢刊』第3巻所収、現代思潮社、二〇〇四年)等の解説をご覧ください。

もちろんこの書を読んでも超人的な能力を身につけることは不可能ですが、兵法の秘伝書として戦国武将にも読まれ、中世の日本において一定の認知を得ていました。そうした現実世界での「四十二巻の兵法書」の受容が物語の世界に反映された結果、義経の兵法修行譚が成立しました。

そして、「四十二巻の兵法書」が権威あるものとして社会に受容されると、武芸者の間にも「四十二巻の兵法書」を読むものが現れました。念流では「四十二巻の兵法書」が読むべきものの一つに挙げられています。

一 勝負之事
右摩利支天経、拝観せらるべし。
一 張良四拾二箇の兵法、幷膚の守り鬼一法眼の兵書 叉那王君の兵法書、右各拝観有るべき事。

『念流正法兵法未来記』「犬巻」日本武道体系、剣道(一)

そして、「四十二巻の兵法書」の現存最古の伝本である尊経閣文庫蔵『兵法秘術一巻書』は兵法の歴史を三皇五帝から語り起こしますが、

兵法秘術一巻書 并序
夫れ、兵甲のそなへは黄帝よりはじまて後文王にいたるといへども、嘗てせめたたかふ刃を交へず血をながす愁へをふくむ事なし。

『日本古典偽書叢刊 第3巻』所収「兵法秘術一巻書」、現代思潮新社、二〇〇四年

「兵法は歴史は中国の三皇五帝の時代に始まる」という観念が武芸者の間にも浸透した結果、タイ捨流では、兵法の歴史として中国の三皇五帝の時代に言及します。

漢に於ては、三皇の昔、反(阪)泉○(涿)鹿の下に戦いて従り。五帝従り元・明に到るまで、断絶せざる者は兵法也。

『タイ捨流燕飛序』日本武道体系、剣道(一)

そして、「張良は黄石公から一巻の書を授けられた」という説話が換骨奪胎された結果、「飯篠家直が夢の中で天真から一巻の書を授けられた」という説話が生まれ、

いいささちようい(飯篠長威)は新当流之ぐわんそ(元祖)也。かしま明神へ兵法の道をえんと、きせい(祈請)すること三七日也。むさう(夢想)に云く、てんしん(天真)と云ものにとう(問)べしと也。夢さめてみれば、一巻の書あり。時に一人の老さう(僧)名をたづぬれば、てんしんと云。

柳生三厳『月の抄』日本武道体系、剣道(一)

張良のように兵法に名を挙げることが武芸者の理想となります。

然五湖四海、以兵法秘術、悪魔外道降伏、朝敵当敵亡、其名挙雲上。然張子房雖為漢高祖之臣下、後過成帝王之師事。和漢解、難入之兵術故也。其外、七書之根源、皆起兵道者哉。能学此術書者、揚名天下、振誉遠嶋迄者哉。

『新当流兵法書』日本武道体系、剣道(一)

柳生宗矩が伝書の一つを『進履橋』と名付けたのも、張良が圯(橋)で履(靴)を黄石公に進めた故事から取られたものであり、兵法によって徳川家に仕えようという宗矩の意気込みが反映されたものでしょう。

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