内なる時と時の形骸

私は「時」についてこれまでちゃんと考えたことがなかったけど、人の時間に関する意識というのは、言語に内包されている時制によって拡張されている(または制限されている)面があるのじゃないだろうか。

それは、物理学が規定する時間や、ヒトの身体から発生するリズムとは別物であるに違いない。

ああ、M.エンデの「モモ」は、そういう「時」に関する問題について真っ向から切り込んでいった作品だった。
人が「時」の形骸に使役されるのではなくて、自らの内から湧き上がる「時」を生きよう、と説く物語だ。

野の獣は「時制」に囚われることはない。彼らの生き様は、内なる時を生きるとはどういうことかを考えるうえで、参考になる。
(2024.2.19)


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