権利の源泉

ちょっとメモ。「はてしない物語」のアウリンは、生命の力の象徴だというけれど、「権利の源泉」と言い換えても良いと思う。

ああ、これで、一気に判ってきた。人狼グモルグの存在も、アウリンの力を制限無しに行使した場合の結果も。

「生命の力」よりも、「生命の尊厳」のほうが適切か。

生命の尊厳に対立するのは、死=無のみ。

権利の源泉が生命にあるか、人格にあるかでも変わってくる。

人格にあるのだとした場合、私のタマネギの皮理論からすれば、その実体は人格を構成する要素なのだとも言えそうだけど、皮がくっついている基盤というものはあるはずだ。

それが、生命という状態なのか。

権利の源泉が国家のような共同体にあるとか、教典とか祖霊を祀る司祭にあるとか考えている社会もあるだろうな。
それは、私(たち)とは根本的なところが違っている。

いや、その場合は教典や祖霊に権利の源泉があり、司祭は権利の行使を委ねられた者だと考えるんだろうな。
(2024.2.9)

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