フランソワ・ケヴォーキアン という DJ その1

フランソワ・ケヴォーキアンというDJを
知っていますか?

私の40代からの人格形成に多大な影響を及ぼした『ディープ・スペース』(以下:DS)というフランソワがレジデントDJを務めるこのパーティーを抜きにして我がパーティー修行は語れない。

マンハッタンのミートパッキング地区にあったナイトクラブ『シエロ』の入り口では、パフォーマンス・アーティストであるモンスタ・ブラックが際立った。やがて彼の後を引き継いだ『キッド・レコーディングス』のレーベル・オーナーであるクレッグが、ゲストリスト担当となった。セキュリティーのマイクやジョン、ウォールスの3人が交代でクレッグと一緒に、寒い季節も暑い季節も野外に立ち温かく迎えてくれた。

コートチェックの細長い部屋の中には、大抵はジェリーがいて挨拶を交わしていた。彼とは帰りのサブウェイの電車も同じになることがあって話をするようになった。

受付のキャッシャーは、ベリーショートにスパイクの首輪を付けたパンクな装いのローラが選ばれた。ダブ・ミュージック・シーンの女神である彼女はとびきり明るくキュートな笑顔で声をかけてくれた。

このパーティーのプロモーターであるエリカも「ハッピー マンデー!」とそこで出迎えてくれた。このひとことは、フランソワの奥様でアーティストのともこさんをはじめとするDSファミリー間での挨拶になっていた。

女子トイレへ行けば、手を洗った後にかならずペーパータオルを手渡してくれるアフリカ人のアワが座っていた。彼女が来る以前に働いていた姉であるミイやその友人でたまに代わりを務めていたアイダとも世間話をしたりした。

パーティーの終わり頃になると大物プロモーターのベニーがオフィスのドアを開けたまま事務作業をしているのを見かけた。

飲み客をてきぱきとさばくベテラン美女バーテンダーのモニカとマディーナがお酒を作って出していた。サーバーのヴァスケスが彼女達をアシストしていた長いバーカウンター沿いに歩いていきながら彼らと挨拶を交わした。その先にはラウンジの心地よい空間が広がり、えんじ色のカーペット敷きのフロアに置かれたソファー席が並び、そのひとつに腰掛けた。

混雑する時間帯になるとニコラスとアイバンがテーブルや柱のふちに置かれた空き瓶や缶と空のグラスを片付けながらホールを忙しく歩き回るバスボーイをしていた。

そのラウンジから一段下がると足が吸い付いていくような柔らかさ、定番である板張りのダンスフロアが私を待ち受けていた。連日のダンス後であっても踊るひざや腰が疲れ知らずになった。

その頭上に吊り下げられた大小10個前後のミラーボールが光線を放った。色鮮やかに飛び交うライトショーには目を奪われた。星や土星の形をしたライトの仕掛けも飛び出し目が離せない。その華麗な照明操作はアリエル、時にはマイケルが守っていた。

極めつけには、イギリス製の高性能ラウドスピーカー『ファンクション・ワン』のビビットな音が鳴り響くいた。そんなこだわりの設備を誇るニコラスとショーンのふたりがオーナー。このクラブのオープンと同時にスタートしたDSはこの箱で13年間続いていた。

やがて、姉妹クラブであったブルックリンの『アウトプット』で月一の水曜のパーティーとして生まれ変わった。現在はどちらのクラブも閉店している。

ニューヨークで踊る人生に欠かせない、この街で生まれた『サルソウル・レコーズ』の看板アーティストであるジョー・バターンやキャロル・ウィリアムスをはじめとするオールスターが出演した野外ライブの日、ともこさんと出会った。紫のラメのスパッツでお尻を振り周り構わず踊りっぱなしだった私をDSへと誘ってくれた。

毎週踊りに来るレギュラーのダンサー達で構成された「ラブ・トライブ」。そのトライブ始まって以来の野蛮なキバ民族の到来。そして乱舞を繰り広げたワタシ。ホント凝りもせず、精一杯の愛で受け入れてくれようとしたこのダンス ファミリーに感謝しかない。

みんなから愛され、いつも明るく笑っていた「太陽のような存在」であったDSのレギュラーがいた。それは愛知県出身のタカハシミツコさん。彼女は2014年に若くしてこの世から旅立った。そんな一度も会ったことが無いひとの話をファミリーからは度々聞いていた。

彼女の可愛らしさとは100倍違う点はさておきとして、今でもワタシが記憶している感覚とは、彼女のピンチヒッターとして、このダンスフロアへ呼び寄せられた気がしてならなかったコト。

48歳から人生の本編スタート。「生きる」記録の断片を書く活動みならず、ポエム、版画、パフォーマンス、ビデオ編集、家政婦業、ねこシッター、モデル、そして新しくDJや巨匠とのコラボ等、トライ&エラーしつつ多動中。応援の方どうぞ宜しくお願いいたします。