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恋は駆け足

 息を切らし、人気のない境内を駆けても駆けても追いつけず、その艶やかな後ろ髪と踵の擦り減ったローファーを視界の奥に捉えては、敬太は痛む胸を労わりつつ悪態を吐いた。中学の頃、帆波は陸上部のエースで他校の生徒からも羨望の眼差しを集めていたという。卒業と同時にキッパリと体育会系の団体からは足を洗ったから本格的に走り込むということはもはや無かったとはいえ、高3の春、今になってもその健脚っぷりは衰えていないのだった。一方の敬太は肺を患っている。専ら中学の記憶といえば保健室の斑点模様の天井と、それから病院の窓から臨む海岸線だった。ようやく追いついて、口からひゅうひゅうと息を漏らしながら敬太はもう一度悪態を吐こうとした。息絶え絶えに絞り出したのは、情けない、抗議めいた嘆願の言葉だった。
 「言ったでしょう、僕は走れないって。もっと、ゆっくり、走ってよ。」
 「走れたじゃない、いまここで。」
 「ん、、、」
 つくづく彼女の屁理屈には呆れる。

 鬼子母神の祀られた本堂で祈りながら、敬太は聞いた。
 「鬼子母神って何だか知ってるの?」
 わざわざ電車を乗り継いで、この中山町までやって来ることを主張したのは帆波だった。ここの法華経寺に彼女は矢鱈に興味を示し、しきりに行きたいと主張しては相手の話を頑として聞かなかった。いつもそうだ。帆波が指定して、敬太が反対して、最後はいつも彼が折れる。傍から見れば、紛うことなく二人は恋人だった。そこに在ったのがどの類いの感情だったかなんて誰にだって分からないものだったのだけれども、当の本人たちは、いつもこの見立てを笑って否定した。
 「ワタシ、知らないの。」
 「学がないんだね。」
 「学はある、興味がないの。興味がないから知ろうとしないし、知ろうとしないから知らないの。何でもは知らない訳じゃないの、知らないことだけ。だから学がない訳じゃないの。」

 帆波は控えめな奥二重にツンと尖った鼻をしていて、痩せっぽちで色気が無くて、鹿みたいに逞しく健康そうな脚をしている。ローファーで石畳を蹴るたびに、くるぶしまでずり落ちたソックスから小麦色の肌が垣間見える。一方の敬太はパッチリとした二重に天パの男で、同じくあばらの浮き出た痩せぎすだったが、こっちは頭の天辺から爪先まで不健康そうで、昼休みは必ず4粒の錠剤を飲み込み、それから図書館の隅っこの、マネやセザンヌやピカソの図版のある書棚の前のテーブルに陣取って、いつも予鈴の鳴るまで眠っていた。ハンカチでむず痒い鼻を抑えながら、敬太はまた帆波の後を追った。
 最後にここへ来たのは中3年の7月で、今日のように矢鱈と晴れ渡った午後だった。シミ一つない青空に切り傷のような飛行機雲が一筋見える、本当に清しい初夏の日だ。その時は祖母の付き添いで、シワだらけの肉の落ちた手を引き、うらびれた仲見世を行った。彼女は敬太の人差し指を掴み木々の方を指して、アレが春になると見事なのよ、などと言った。ゴツゴツして節くれだっていて、太く、そして黒々としたその木々は敬太の眼には只々グロテスクに映った。こんな禍々しい見てくれの樹木にあのような儚げな花が咲くなんて、思えば到底信じ難いことなのだ。開いているのか分からない、半分壊れかかっているタバコ屋の前を着物に身を包まれた祖母はトボトボと歩き、孫はそれを黙って見ていた。いったい彼女は幾つなのか、彼はよく知らない。それでも以前よりも老いたのだろうとは思った。人の影もない境内を老人はじれったい足取りで進む。手を引くのに飽きた敬太はスマホでグラドルの写真を見ていた。水着の彼女は今にも零れ落ちそうなバストを両手に抱え、挑発的な笑みを投げかける。もう夏はその吐息がかかるくらいの距離まで来ていて、その事実が何より敬太を憂鬱にさせた。
 本堂は一際静かな空気の中に在った。手短に参拝を済ませると祖母は彼の細い肩を抱いて、辛抱なさい、大変なことばかりでも辛抱なさいね、と言った。前触れもなくイマイチ要領を得ない忠言だった。それでも矢鱈と記憶に残っていて、クラスメートにハブられたりバイト先で訳なく責め立てられたり、高校受験に失敗したときなんかに、その言葉を思い出した。暗い屋内から抜け出ると、容赦のない日差しが砂利道を隈なく照らしていた。酷く眩しい午後だった。
 その晩、祖母は呻き声ひとつ立てずに死んだ。ピンピンコロリとは羨ましいと周囲は言う。それに対して母はいつも「私お義母さんの口から不平不満の一つすら聞いたこと無かったですわ」などと返し、「戦前生まれの人ですから我慢強かったのでしょうね」と言葉を継いだ。それからいつも哀れむように敬太に目を遣った。

 帆波と本堂を後にして広々とした空間に出た。ゾッとするくらいの青空の下で学ランの黒は陽の光を良く吸い込み、季節の割に少し汗ばむ天気も相まって、今にも体は茹で上がりそうだった。襟元のネクタイを外して第二ボタンを開き、空を仰いだ。暑い暑いと愚痴り、彼女はこう言う。
 「私の弱みを、特別に教えてやろうか。」
 ここ2年ほど彼女とは一緒にいたわけだけれども、弱いところはなかなか見せなかった。カラオケが死ぬほど嫌い(下手なヤツの歌なんか聞きたくないから)、アブラゼミが嫌い(小学生のころに口を開けて走ってたら間違って食べちゃったことがあったから)、サイゼリヤのドリンクバーで遊ぶヤツが嫌い(食べ物で遊ぶのはサムいから)、等々の嫌いなことなら知っている。詰まらない人間とはツルまない、ダサいことにはダサいと言う、そういう彼女の姿こそ思い浮かべども、彼女の弱ってしまっているところというのは想像できなかった。
 背を向けシャツのボタンを三つほど開き、帆波は裸の背中を見せた。痛々しい青黒い痣が無数にある。骨の浮き出た肌に点在するその痣を繋げたら星座か何か出来そうだった。
 「母がなかなか厳しい人でね。皿を洗い忘れたり門限を破ったり、定期試験で平均を下回ったりしたら、こうやってさ…。」
 指の先でつねるような仕草をして彼女は笑った。まぁどうにもならないことなんだけどもね。自分が注意したら良いのだし。そう言った。喉に物が詰まったみたいになって敬太は押し黙っていた。
 「私が消えたら悲しむかな、あの女…。」
 消え入るような口調でそう言うと、彼女はさっさとシャツを直した。咳払い。しばしの沈黙。
 「…女の子の裸が見れて嬉しかった?」
 「いや別に…。見るなら前からが良いし。」
 「キモっ。死んだ方が良いよ、死んで詫びな。」

 仲見世を戻る途中、ほとんど廃墟と化したタバコ屋の残骸の前では皺くちゃのジジイがショートホープ片手に佇んでいて、時折汚い煙を通りに吐き出しては何だかブツブツと呟いていた。ああはなりたくないね。そう敬太が言うと、絶対そうなるよ、なんて帆波が返す。
 「なってみたら意外と楽しいかもよ。知らないけどさ。」
 桃色のフレームが縁取る道を行く。彼女は時折後ろを振り向いて、敬太の目を覗き込んだ。いつも二人に言葉は要らなかった。それでも何か、何か言葉がそのとき必要だった。けれど無言の二人は足を進め、とうとう門まで辿り着く。ふと彼は振り返り、満開の桜の彩る境内を見渡した。晴れがましい気持ちで敬太は自分の来た道を顧み、ある歌を思い出した。18というのは早死にするには若すぎるか、はたまたちょうど良い年頃なのか。そんなことを考えていた。

 本格的に日差しが強くなり、敬太は学ランを脱いだ。アスファルトの往来に出て首元の汗を捻じ伏せる。先を行く帆波の姿を見ながら、敬太は来たるべき新たな季節に想いを馳せていた。それから桃色の風が、一息のうちに二人を追い抜いていった。

(終)


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