見出し画像

死生観とか希望寿命とか生きる理由とか

昨日スノボに行ったため全身筋肉痛だ。
全身筋肉痛の中、普段使わないPCで
noteを書いているので
打ち間違いがひどいのなんの。

そんなこんなですが、自分で勝手に
自分を「死生観バグ」と称している話を、
ずっと前から、ずっと漠然と考えていたことの話を、
文章という表現方法にて記しておこうと思います。

せっかくPCという大画面なので
見出しも作ってみます(初めて)(どうでもよし)


自分の「死」への向き合い方

自分は昔から、
概念としての「死」に対する恐怖が、
多分、人よりも希薄
だ。

「概念として」と頭付けしたのは、
少し追記しておきたいからだ。
死ぬときその瞬間の痛み・苦しみに対する、
ある意味想像し得る(想像し難いが)
とも換言できる恐怖は持ち合わせている。

一方、想像し得ない、というか分からない
「死」自体を恐れる感覚が自分にはない

以前のnoteで記したように
「生」「死」への執着がないこととか
「生」「死」が表裏一体と思っていることも
この辺の考え方に通じていると思う。

あと、逆に、(逆なのか?)
他の人とか物語の中でよくみかける
「生」への執着が強さ(=「死にたくない」「出来る限り長生きしたい」)というのは、
「死」への恐怖から来る思いなのではと思う。


↓ちらっと書いたその辺の話



手がかりはどこにあるか

2022年11月に、新海誠監督の映画「すずめの戸締まり」が公開された。

簡単にいえば、本作の主人公「岩戸鈴芽(すずめ)」が、禍の元となる「扉」を日本各地を巡って閉めていく、少女の成長と冒険の物語である。
そして本作の下地には東日本大震災という出来事が存在する。

震災孤児であるすずめは、
「死ぬのが怖くないのか」という他者からの問いに、「怖くない!」と即答する。
「生きるか死ぬかは運次第」と。
こういう考え方を自分は理解できてしまう。
(このへんの考察は、映画公開当初に色々探して
 読んでいた。今でもたくさんあるはず、
 よければぜひ色々みてみてほしい。w)

とはいえの話だが、このすずめの価値観、
キーは「震災を経験した」ということにある。
自分にはダイレクトに「これがこの価値観の根幹だ」というものがパッと思い浮かばないのである。

1つ心当たりがあるとすれば。
はるか昔、大好きだった人を、
物理的に莫大な時間と距離をかけて、
ゆっくりとでも確実に、失ってしまった経験がある。
秒速5センチメートルのこの表現がうってつけである。
(新海誠ばかりだが許してくれ、好きなのだ)

僕たちはこの先もずっと一緒にいることはできないのだと、はっきりと分かった。僕たちの前には未だ巨大すぎる人生が、茫漠とした時間が、横たわっていた。

『秒速5センチメートル』第1話「桜花抄」より

ピンポイントに大きな出来事があったわけじゃないが、好きな人のことを、失うと分かっているのに長いこと考え続けた弊害で、
着実にこの価値観が自分に組み込まれてしまったような気はする。
得てしまった絶望感と喪失感と、
それを受け入れるための考え方。

そういうことにしよう。
着地点が欲しい()


自分の「寿命」の考え方

死生観の話から少しアプローチを変え、
今度は希望寿命の話を綴る。

10代の頃に、漠然と
「20歳くらいに、あるいは学生時代が
終わったら死ぬのかな」と思っていた。
結局、生きた状態で存在して、現在25歳なわけだが。

とはいえ、10代の頃は、
自分が社会に出ている姿、社会でうまくやっていけている未来が全く見えていなかったのは事実である。
どこかのタイミングでふと消えるのかな、と思っていた。

あとその頃は普通に希死念慮も持っていた。
「希死念慮」という言葉を知ったのもこの頃だったはず。

これに関してはなんとなく
自分で解っぽいものを導いている。
生きてしまう原因は、まあ簡単なところでいうと
「死ぬ瞬間の痛み・苦しみへの恐怖」が
一因としてあるのだが、もっと根本的には、
自分が「それでもうまく生きていかなきゃ」という変な使命感を持ち合わせていることにある

希死念慮も持っているので、ちょい矛盾というか、複雑で悩みまくりの生きづらい思考回路が脳内を巡っている()

このへんはINFJのJの気質が
現れているのかもしれない…。

もっと具体に言うと、親の存在がとても大きい。
親が時間とお金と愛をかけて育ててくれた「私」という存在を、ポイ捨てするわけにはいかないという思いがある。
思い悩みながら、25歳に社会へ出た。

そういうわけで、
最近は30歳までは生きていける気がしている。
とはいえ相変わらずその10年後、40歳の自分が
この世界で生きているビジョンは全く見えない。

見えないけど、20歳の節目を乗り越えた経験に
基づけば、今度は
「親のために結婚しないといけない」とか考えて
結局同じ感じで40歳まで生きてしまうような
気もしている。

親の存在、と冒頭で書いたが、
友人の存在も大きい。

「ただ自分がそこにいるだけで喜んでくれる人」
の存在は、今のところ、たった1つの
「自分が生きていく理由」になっている。


こういう考え方もいいよね

QuizKnockの河村さんが、ご自身の誕生日について、こんな投稿をしていたことがある。

精神的誕生日です ありがとうございます

肉体が出来た日というのもあるのですが、それとは別に決めました 肉体の不調のせいで精神が自由でないことは苦痛でしたし、肉体が滅んでも精神をこすりつけて作ったものには死んでほしくなかったので

@kawamura_domo 2022年11月7日より


なるほどなー。と思った。
(もちろんおめでとうも思った)
肉体と精神を分けて考えるなんて、
分けて考えることで苦痛を和らげようとするなんて、自分は一ミリも思いつかなかった。

この投稿を見て、
自分は精神世界でだけ生きていけたらいいんだな、とか、思考が好きなんだな、とか、「今ここにある空間そのもの」への興味が薄いんだな、とか
考えさせられてしまった。

「生」「死」の精神世界で揺らいでいることも、
ある程度考え方を割り切ることで
「生」の空間をちゃんと生きられるようになるのではないか?とか考えさせられてしまった。


自分へ

思考の中にいるのはまあいいけど、
それはそれとして
現実世界でもちゃんとやっていきましょうや。

なんかうまいこと割り切って、
思考との折り合いつけて、
なんとか生きていきましょうや。

自分が生きていることを喜んでくれる人のために。



わー、3000字近くになってしまった。
読んでくれてありがとうございました。
似たようなことで悩んでいる方に
少しでも力に、支えになれば。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?