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「こう見えて私」って言う人。

テレビでバラエティ番組を見ていると、あるギャルタレントが「こう見えてアタシ自炊するんですよ〜!」とギャハギャハ言っていた。

正直私はそのギャルについて、ギャルであること以外の情報を持っていなかったので、まったく意外ではなかった。つまりこれを見ていた私に「こう見えて私」攻撃は効かなかったことになる。

こう見えて私。

ギャップ、意外性、いい意味で期待を裏切ることになるマジェスティックワード。「こう見えて私」は、それを発する前に全員共通の認識があり、それを裏切るかたちで意外性のある情報が提示されなければならない。その助走になるのが「こう見えて私」だ。


でも思うのだ。

なぜ「こう見えて私」って言う人はつまらないんだろう。そう、遠慮なく言えばつまらない。はっきり言ってつまらない。おもしろくない。「こう見えて私」と言う人がおもしろかったことなどただの一度もない。芸能人だけでなく、広く一般人もたまに使う「こう見えて私」。あぁつまらない。本当につまらない。

なぜだ。

どうしてこれを言う人がつまらないのかというと、ある意味で横柄だからだ。「こう見えて私」を使うにあたっては必ず「共通認識」がなければならない。共通認識があるからこそ裏切りの「こう見えて私」が生きてくるわけだ。

こう見えて私、を使う人の心の中には「もちろん、みなさん私がこういう人間だということはご理解いただいていると思うんですけど」がある。透けている。

横柄さのようなものがある。それと同時に感じるのは、どうやら客観視が足りないような、何か滑稽なものを感じる。そう、滑稽なのだ。



「こう見えて私」を口にする人の奥底にあるのは、自分の評価を自分で決めている姿だ。これだ、これが滑稽に映るのだと思う。

自分が自分に対しておこなう自己評価をわざわざ表に出すことはないのに、というか評価は他人がするものなのに「こう見えて私」を連発する人からはその横柄さと滑稽さがにじむからつまらないのだと思われる。


逆にどうだったら「こう見えて私」はおもしろくなるのか。


おそらくだが「こう見えて私」と言ったあとのワードが意外すぎる、あるいはぶっ飛びすぎているとおもしろくなりそうな気がする。前提認識はいったん関係ない。どれだけ弾けたすごいことを言えるかが勝負だ。

「こう見えて私」を使う人は「こう見えて私」のあとがどうだったらおもしろくなるかということをまず考えない。あいつらは絶対に考えていない。


たとえば「こう見えて私、天皇陛下とお話ししたことあるんです〜!」と言われたとする。すげぇ。いいなぁ。私も話してぇ。


たとえば「こう見えて私、竹野内豊の元カノなんです」と言われたとする。えええええっ!? マジかよ。選ばれてるんかい竹野内豊に。すげぇ、こいつはすげぇ。


たとえば「こう見えて私、バイデン大統領をぶん殴ったことがあるんです」と言われたとする。嘘つけ! と言いたくなるが続きが気になるじゃないか。


たとえば「こう見えて私、ポカリスエットの名付け親の孫なんです」と言われたとする。ええっ! と言いたくもなるけど、こいつはダメだ。すごいのは名付け親だ。なのにこいつは他人の手柄を自分のものにしている。虎の威を借る狐そのものだ。


なぜ「こう見えて私」と言う人はつまらないのか?


たいていが期待を裏切ってこないからだ。


〈あとがき〉
そう書いてる私が1番気付かずに「こう見えて私」を使ってる気がします。またはそれに準ずるワード「実は私」も使っているような気がしています。どれだけ弾けてぶっちぎれるかが大切なはずなのに、なんか弾けてないんですよね。なんかすみませんでした。今日も最後までありがとうございました。

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