イージーモード


人生イージーモードだね

わりと言われる。
人に対して言うのは失礼かもしれないけれど、私はこれを言われることが嫌いではない。
むしろ嬉しい。

親御さんがちゃんとした人なんだね、とか
悩みがなさそうでいいね、とか
そういうの全部嬉しい。
ちゃんと育てられた人に見えているのなら、それは私の努力の賜物だし、悩みは尽きないけど悟られたくないので隠せているのなら嬉しい。


イージーモードに見える人って、たとえば仕事もうまくやれていて、友人や恋愛関係も悩まず、健康そうで、とりあえずなんやかんやとうまくいっていそうな人なんだと思う。

そう思われているのなら、見えているのなら、嬉しい。

ただ、女はみんなイージーモードだろ!!みたいな勢力に属している人は苦手。
そういう人って可愛い女の子にしか優しくしないし、きっとその人の中で「女」は可愛い子限定なんだもん。


とはいえ私も、容姿が整っている人や、コミュ力おばけ、何か秀でたものがある人を見て「人生楽しいだろうなぁ」と思ったりする。
相手の事情も知らないで、あまりにも勝手に。


実際イージーかハードかで言えば、正直わりとイージーモードだと思う。

そこそこ裕福な家に歳の離れた末っ子として生まれ、幼少期は無駄に愛嬌のある性格も味方してくれて、それはそれは可愛がられた。
まぁその後はなんやかんやと巻き起こったけれど、なんだかんだ今は大きな病気や怪我もせずに生きているし、人間関係にさほど悩むこともなく、そこそこ安穏な暮らし。


ただ、私ってつくづく悩みがなさそうな顔をしているな、とふと思った。
余談だけどつくづくって熟って書くのね。4文字も担うなんて責任感の塊みたいな漢字。

真剣味のない顔。
怒っていることが伝わらない顔。
所謂「柔和な顔」なんだろう。
とにかく人に舐められる。

思えばいつもそうだ。
何人かいる中で、頼まれごとをするのは私だった。

話しかけやすいといえば聞こえはいいけれど、なんというか私は「いけそう」なんだと思う。
もちろん良くない意味でも。

チョロそう。
いけそう。
簡単そう。

この3つ全部「イージー」という言葉そのもののイメージ。
私の場合「人生が」ではなく「私が」な気がしないでもない。


凛とした人には私はなれない。

そんな人になれないのなら、魚になりたい。
大きな海よりも、小さくていいから澄んだ湖で。

ゆらゆらゆらゆら、来る日も来る日も泳ぎ続けて、湖に水を飲みに来る鳥からはきっと、こんなに狭いところでと哀れに思われる。
だけど私はそこしか知らないし、毎日縛られず自由に泳げているのだから、自分は誰よりも自由なのだと錯覚したい。

囲われた中で。
守られた中で。
不自由な自由の中で。

外の世界なんか、海なんか、知らないままで。


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