三股のニャー。

私は小さい頃、車に引かれた。大降りの雨の中で。

車1台分しか通れないような、小さな住宅地の、小さな道を横切ろうとした。軽く走っても2、3秒で突っ切れる。けれどその時は、渡り切る事が出来ずに10分、20分と横たわっていた。
…ような気がした。時間の感覚なんて正直分からないが、痛みと恐怖に支配された私は、眠ることも、食べることも、もう二度と訪れないのではないかと思った。

痛い。痛すぎて声も出ない。
誰か助けて。痛い。怖い。ヤダ。まだ死にたくない。生きたい…。

近くを通った人間に助けを求めるが、私と目が合うと慌てて目を逸らしていなくなる。やっと絞り出した擦れ声も届かない。景色も霞んでくる。
そんな意識の中で体がふわりと軽くなり、私は霞の中に消えた。


目が覚めたとき私がいたのは、あのゴツゴツと冷えきったアスファルトではなかった。罪悪感を抱えながら逃げていった人間達の目もない。
そこは白く優しい光が広がっていて、私は暖かさに包まれていた。

ここが俗にいう天国なのか…。
と思ったのだが、片脚がひどく痛む。まだ現実は続いているのだと悟る。

ペタペタとよれたサンダルの音が近づいてきて、私の前で止まる。大きな体をした男のゴツゴツとした手が伸びてきて、それは私にアレを思い出させた。徐々に命を吸い取られるような、あのアスファルトを…。
あの時の恐怖が蘇ってきて、私は力の限り逃げようとする。
だが体はほとんど動かない。わずかに顔を逸らすのが精一杯だった。
そして指先が、オデコの辺りにグッと触れる…。そこから後頭部まで滑っていき、再び同じ位置に戻ってそれを繰り返す。優しく。
アスファルトのあれを思い出させたその手は、優しく私の頭を撫でた。
ゴツゴツとした手からは懐かしい温もりが伝わってくる。あまりにも予想外なその温もりに力が抜け、そのまま頭を預けて、撫でられる。

暖かい。人間にも温もりはあるんだ。
私の生きる世界が、こんな優しさだったらいいのに。毎日ねむる地面も、こんな暖かさだったらいいのに…。

それから毎日、大男は美味しいご飯を持ってきて私に食べさせてくれた。
優しくて安心する日が続き、歩く練習が出来る程には脚の痛みも引いた。
毎日生きるのに必死だったあの頃と違い、私は初めて、居場所を得たような気がした。

三本足での歩行にも慣れたころ、大男に抱えられてカゴの外に出る。

この人間は腕も太いなぁ。それに毛むくじゃらだし。何だか獣みたいだ。
でもまあ、この人間に抱えられるのは嫌いじゃない。

大男は私を抱えたまま大きな扉を開ける。
そして目に見えたのは、陽の光が注ぐ外の世界だった。

暖かい光を受けているはずなのに、久しぶりに目にした外の世界は、以前は感じなかった冷たさと恐怖が漂っていた。

私は、このまま腕からスルリと抜け落ちて、地獄へ落とされるんじゃないかと思い、必死に爪を立ててその腕にしがみつこうとする。
だが片方しかない足では何も掴めなかった。
男がしゃがみこんで、地面との距離が近づく。
何も抵抗ができない私は、ただただ恐怖が増していき足が震える。
とうとうアスファルトに足をつけた私だが、そこから一歩も動くことは出来なかった。
車にひかれた時の恐怖を思い出し、前に進むことができない。
…目の前の道路を渡り切れない。

そっと、後ろから暖かいぬくもりで包まれた。
振り返ると、大男が私の頭を撫でてくれていた。

「頑張って生きろ。
これから大変なこともあるかもしれんが、腹が減ったらいつでも来い。
…大丈夫だ。もしまた怪我をしたら必ず見つけて助けてやる。」

大男から初めてかけてもらった言葉は、優しく、一歩を踏み出す勇気を与えるくらい力強かった。

私は大男を背にして、前へと進む。
目の前の恐怖がなくなったわけではないが、立ち向かえる勇気をもらった。

なにか辛くて耐えられなくなった時は、ここに来よう。産まれた場所も分からず、帰る場所も無かったけど、でもここは、どんな姿の私でも受け入れてくれる。疲れも傷も、癒してくれる。
ご飯にありつけなくても、カラスに襲われても、怪我をしたって大丈夫。
安心して外の世界に行ける。気の赴くままに、惹かれるままに…。

この傷は、自分の世界を手に入れた証だ。
だから私は、臆することなく外の世界へ踏み出せばいい。

にゃー、と一言礼を言い、向こう側へと走り去った。

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