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アートの名において、わたしたちはどれだけのことが許されているのか | 中山和也展

文:石井潤一郎
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今回の展覧会において、わたしは「ギャラリスト」をクビになった。

というのはもちろん作品の中の話で、作家本人も決してわたしを「クビにした」とは言っていない。作家・中山和也は、あくまでも新しいギャラリストを「新規採用」しただけであって、しかしこのギャラリストが、わたしが今まで行ってきた仕事を(展覧会期間中だけであるとはいえ)十分な情熱と責任を持って取り組んでいるのだから、わたしの仕事がなくなった、という事実には変わりがない。

「作品」という概念さえ覆す中山の(そもそも中山の作品は多くの場合において「品」ではない。むしろ作られた「為」であり、その)「作為」により導かれた愉快な光景が、日々ギャラリー・スペースでは繰り広げられている。

「写真展」という触れ込みで開催された展覧会の、会場を訪れた観客がまず目にするのは一枚の履歴書である。丁寧に(そして正直に)記入されたB4サイズの市販の履歴書の隅には(確かに)一枚の証明写真。新規採用のギャラリスト——これが中山が雇った新しいギャラリスト・長嶺慶治郎の肖像である。

「履歴書の写真など写真展の写真とはなりえない」そう考える来場客に、ギャラリスト・長嶺はギャラリストとして作家・中山の作品を紹介する。否、中山の作品として、自分自身を紹介すると言うべきか。

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「社会彫刻」というのはヨゼフ・ボイス(1921 - 1986)が提唱した概念で、「拡張された芸術概念」と共に、ボイスの活動の原理であるとされる。美術手帖の「ART WIKI」によればこれらの思想は・・・『「すべての人間は芸術家である」というボイスの言葉に代表される。ここでの「芸術」は、教育活動、政治活動、環境保護活動、宗教なども含めた拡張された意味での芸術活動・芸術作品である。ボイスは、いかなる人間の営み、芋の皮をむくといった行為でさえ、意識的な活動であるならば、芸術活動であるとその社会性を説明している。つまり社会彫刻は、自ら未来のために社会を彫刻していこうという考え方である』

つまり「芸術活動である」という意識を持った行為であるならば、すべてのものが芸術(アート)となる。

さて、そうして21世紀を迎えたわたしたちは、大きな問題に直面している。すなわち、技術が飛躍的に発達し、人間の権利がいよいよ爛熟してきた今日、わたしたちは「アート・プロジェクト」の名において、はたしてどれだけのことが許されているのだろうか。

今回の中山和也展では(もちろんわたしも合意の上だが)作品によって「ギャラリスト」が交換された。ならば・・・同じようにわたしたちは「アート・プロジェクト」の名において、自身に好意的な作品解釈をするギャラリストを、社会的影響力のある地位につかせることができるのだろうか。また逆に、わたしたちは自身に辛辣な批評を行った批評家を「アート・プロジェクト」の名において、糾弾することができるのだろうか。さらにわたしたちは「アート・プロジェクト」の名において、批評家に加担した美術館の館長を退任に追い込むことができるだろうか。あるいはわたしたちは「アート・プロジェクト」の名において、美術祭を中止させた行政を糾弾し、政治家を降板させ、一国の首脳を辞任に追い込み、あるいは国体を解体し、果てには国連の解散を要求することはできるのだろうか。

理論的に言えばできるはずである。伝統的な彫刻家が素材を——つまり例えば木や石を——思い通りに取り扱いたいと要求したように、社会彫刻家も素材を——つまりは社会を——思う通りに扱いたいと要求する。加えて言うならば「アート・アクティビズム」は、もっと直接的に社会に働きかけ、その形態を彫塑する。

さて、では今「地球環境を破壊する」というアートは?

「金は優れたれども、鉄の益多きにしかざるがごとし」

14世紀に書かれた随筆『徒然草』には、そういった一文が出てくる。曰く、黄金(こがね)は確かに美しいけれど、黒鉄(くろがね)の有用性には敵わない。ある解説によれば、鎌倉時代に書かれた第一段において、男子の教養として重視された「社交性」や「芸術性」が、南北朝の争乱の頃に書かれた百二十二段の頃に至っては、軽視されているところが興味深い。なるほど「時代」の「美」への要求は、「黄金」と「黒鉄」の間を行き来しているものかもしれない。泰平の世に人は装飾的、あるいは一見すると無意味な一瞬の輝きに情熱を注ぎ、そうして時代に不穏な足音が聴こえてくると、人々は「美」にもっと有用性を求めるのかもしれない。

確かにある一面で、わたしたちの時代はタニア・ブルゲラが主張するような『Arte Útil(2013 / アルテ・ユーティル / 有用な美術)』の時代を迎えている。ブルゲラは「政治的な反抗」そのものを作品とするアート・アクティビストで、その活動は常に「有効に機能する」ように企てられている。

自由市場の倫理と「私(わたくし)」の神話が結託した今日の社会で、わたしたちはあらゆる黄金の「自己表現」を、販売経路に乗せてきた。20世紀型の芸術産業(あるいは20世紀の産業型芸術)は、次々にアートをコモディティへと変えていった。そうして飽和状態を迎えたわたしたちの「無用で贅沢な(黄金の)芸術」は、今日ハッキングできないデータを季間限定モデルとして販売する。石油から希少非鉄金属へと産業の興味が移行する中、わたしたちは相変わらず、バッテリーとモニターで20世紀資本主義型の成長神話を延命させながら、南極を溶かし、ジャングルを焼き、海底を掘り起こし、やがては宇宙に希石を求め出で、太陽系に盛大に人類の活動の破片を撒き散らしながら、火星に芋の皮を剥きに行く。

これらは相変わらず「アート」の名において許されている。そしてもちろん、これらを否定することも「アート」の名において許されているのである。

1968年、フランスで起こった民衆蜂起(パリ五月革命)や、チェコスロバキアの変革運動(プラハの春)は、完全言論の自由化による社会主義的達成を巡る戦いであった。これに対し三島由紀夫(1925 - 1970)は同年、早稲田大学において以下のような講演を行った。

「言論の自由で一番わかりやすいのは『エロティック』の問題であります(・・・)フリーセックスとは言われているけれど、どこまで公然猥褻が許されるのか。カーセックスはいいのか。こういう問題が、言論の表現の自由に絡まってまいります」

三島はマルキド・サド(1740 - 1814)の例を挙げながら「人間(Humanity)というものは人間性の中に自然(Human nature)をもっている」と語る。

「人間性を完全に解放したら、どういう社会ができるか。もちろん、現社会体制は破壊される。その破壊される彼方になにがあるか、ということをサドは予見していたように思うのであります。一例が、もしセックスの完全な自由ということが許されるとすれば、あるいは強姦・輪姦、その程度で済むならいいが、快楽殺人というものがあります。どうしても人を殺してしまわなければ満足しない人だっているかもしれない。そういう人のセックスの権利を自由にしたら、殺人が横行することになって、殺人も許される。ひとつの社会が殺人を許し何も許すとなると、どんな政治体制でも崩壊してしまう」

「文学の世界では、人間性は完全に解放される。例えばサドの文学のようにアモラル(amoral)な、完全なフィクションの世界が成立しますが、現実生活では、われわれは必ず、人間性の、自然を含むところの人間性から、なんらかの形で『人間』を救い出している。その人間を救い出すための機構が、政治の色々な形の表れを成していると、私はこういう風に考えている」

社会には、そこに暮らす人々を(他ならぬわれわれの内部の「人間性」の)危険から保護するための「保護観察機能」が備わっており、また同時に、その権利を行使するための「権力防衛機能」が備わっているのだと三島は語る。そして「表現の自由」とは、この社会の「保護観察機能」と「権力防衛機能」の均衡を調整する「交渉手段」であって、その出発点においては「社会(国家)にどのような像を求めるのか」という問いが横たわっている、とするのである。

つまり「社会」とは、単にわたしたちが生活するための手段ではなく、わたしたちの「目的」そのものなのではないのだろうか。するとわたしたちは、その「目的」にどのような像を求めるのだろうか。

イタリアには「Non si sputa nel piatto dove si mangia(食事中の皿には唾を吐かない)」という諺がある。わたしたちの目の前にある「この社会」とは、はたしてわたしたちが「食事中の皿」なのだろうか。それとも、それはもはや食事の済んでしまった、あるいは今から食事を行うために、よりよく準備中の皿なのだろうか。さらに言うならば、今日のわたしたちは、どこまでを「自分たちの皿」として認識することができるのだろうか。そしてまた「皿」とは、人間の社会的営みのみを指しているのか。それとも、それはもはや「グローブ(地球)」の問題なのか。

さて、中山作品の話に戻ろう。

中山作品はいわゆる「アクティビズム」ではない。直接行動によって、率先的に社会の形態に変革を求めない。中山はまた、サドが人間性の解放の行く末をリアルに描いてみせたように、可能性の果てにある極論的「イメージ」を、具象的に描き出すようなことはしない。つまり中山の作品は「イメージ」そのものではない。むしろ観客にイメージさせる、すなわちそれを喚起し、あるいは「遠視」させる、必要最小限の要素を含んだ、機能装置のようなものなのである。

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そうして中山の意識な行為によって整えられた、機能装置の中で巻き起こる現象は、不確定要素を(むしろ「ばかり」を)含んだ、すべてまぎれもない「現実」である。中山作品の内部において、観客はまるで作為と無作為の垣根が曖昧な「禅寺の庭」に紛れ込んだような気持ちになる。中山の作品とはそうして既成概念を脱却し、使役受身形的に「考えさせられる」ところに、その妙があるのではないだろうか。さらに付け加えていうならば、それは認識の改革を謙虚に促す——素材を思うままに管理しようとするのではなく、その「よさ」を引き出すように努める——伝統的な彫刻家の、すなわち「社会彫刻家」の姿勢であるように思えるのである。

そう考えていたら、今回の展覧会において、わたしは「ギャラリスト」をクビになった。

——しかし一体、何のために?

中山のプランを聞いた時に、わたしは「アート・プロジェクトの名において、わたしたちはどれだけのことが許されているのか」という、この文章を書くことを考えていた。「社会彫刻」と「アクティビズム」、「有用の美」を求める今日の不安定な状況と「表現の自由」・・・つまりそう考えていた時点で、わたしは早くもその禅問答のような思考の深淵に足を踏み入れていたということなのである。


Kazuya Nakayama exhibition 
« What do you think about an exhibition that uses a photograph? ~New recruitment of a gallerist~ »

2021.09.17-19 / 09.24-26 / 10.01-10.03 / 10.08-10.10
Open 12:00 - 17:00 at KIKA gallery
2021.10.01, Nuit Blanche day opens until 23:00
KG + 2021 officially registered exhibition.


石井潤一郎(いしい・じゅんいちろう)
https://junichiroishii.com/
1975年生まれ。美術作家。2004年よりアジアから中東、ヨーロッパの「アートの周縁 / インターローカルな場」を巡りながら20カ国以上で作品を制作・発表。2020年よりICA 京都(Institute of Contemporary Arts Kyoto)で、レジデンシーズ・コーディネーター としてAIRのネットワーク作りを行う一方、KIKA galleryのプログラム・マネージャーと してアーティストの展覧会作りにも関わっている。京都精華大学非常勤講師。

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