御朱印の無い神社たち

 神社好きの中にも種類があって、寺社好きという神社もお寺も好きな人、御朱印巡り人と呼ばれる御朱印を集めることを目的にしている人、決まった神社しか行かない崇敬人などなど分ければキリがないがその中でも私が会ってきた多くの人は御朱印集めをしている人が多かった。
 人によっては仏教のパクリとかスタンプラリーと揶揄される御朱印集めであるが行った記録を残す手段の1つなのだろうと私は考えている。ちなみに御朱印巡りと呼ばれるいくつかの神社が一緒になってやっているものがあって、「この中に書いてある神社を周りきったら特典を最後の神社で渡すよ」という類のものは途中まで集めたら売れると御朱印集めをして売っている人に聞いた。
 さて、様々な神社がこの御朱印を集客に使っているのだが中には御朱印を置いていない神社も数多くある。私はそういった御朱印を置いていない神社にも行くために御朱印集めをしていない、きっと御朱印集めをしだしたら置いていない神社に行かなくなるから。
 御朱印を置いていない神社というのは──こう言ってはなんだが──観光に力をいれていない場所が多くあまり知られていないことが多い。一昨日に行った蜊江神社(つぶえじんじゃ)なんかはそうだった、タニシを神の使いとして祀る珍しい社であるにも関わらず名があまり知られていない、私もこの神社のことは「近江の神道文化」という本を読むまで耳にも挟まなかった。近くを通ることは何度もあったしなんなら近くの神社までわざわざ行くことがあったのにも関わらず知らなかったのだから相当である。
 安曇川流域特有の信仰であるシコブチ信仰の社なんかも一部を除いて全く広報されていない。七思子渕と呼ばれるシコブチ信仰のなかでも特に重要視される七社の神社でさえ京都の久田にある志古淵神社──風流踊りで売り出している──以外の場所は特に広報されることはない。ちなみに鎮守社──お寺を守る神社のこと──なんかも御朱印を置いていないことが多く、三井寺(園城寺)の鎮守社である鉄鼠を祀る十八明神社や相国寺の鎮守社である宗旦稲荷社などはお寺の御朱印はあっても神社の御朱印はないため観光客には見逃されることが多くあまり知られていない、例外として電電宮のような日本でも珍しい電気関係にご利益がある鎮守社はガイドブックにまで載っていて観光客が大勢くるがこれは本当に稀なパターン、御朱印のない神社に人は来ないというのは当たり前になりつつある。
 さて、近年科学の発展で思想の自由、宗教の自由の進行により多くの神社が廃絶されてしまっているという、家の近くの神社も三社ほど廃絶したしその波が信仰の薄い神社まで進行するのも時間の問題だろう。
 個人的な話になるがうちの両親は地域の神社に半年に一回お金を払うのを忌まわしく思っていて、その思いが広がっていき地元の神社が廃絶する可能性はある。私としては悲しいが諸行無常の摂理の中で当たり前に起こる出来事であるしおかしな事では無い、有名な神社ばかり本に載っている現状がある、こういった有名な神社を残す動きは続くだろうが地方の伝説の残る神社なんかは廃絶していくのが今後の世界の流れとしてあるだろう。神社を介して自然に感謝を伝えたい人ばかりではないし、むしろ神社好きの中でもそういった思考の人は少なかろう、私は信仰が薄れゆく状態に抗うことなく歴史に神社の記録を残すのが善であると考えている。

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