開運と神社

 開運したいから神社に行くという生物と私は全く別の生物であるという確信がある。
 開運というのは風水や占いといったオカルト系であり、そういった輩は大体龍神様が好きである。私も龍神様は嫌いではないがあくまで八百万の神の一柱である。別にオカルトを否定しているわけではなく、私も普段ミサンガをつけて勝負の日には神社に行って「頑張ってきます」と意気込みを神様に伝えに行き、後日結果報告にも行く、私にとって神様は世話になっているおじさんやおばさんのような存在なのである。
 一方運気上昇厨さん達は神社に行くことで運気を上昇させて健康的になりつつ富の潤いを求めようとしている方が多い印象だ。真の神社好きはたとえ運気が下がるといわれるような神社だろうと行くしそこの神様に感謝の気持ちを伝えてトコトコ帰ってくる。運気上昇厨はおそらく心霊の噂のある首塚大明神なんかは行かないだろう。
 私はつくづく彼らと一緒にされることが気に食わない、インターネットで神社を探していると「運気上昇の神社が〜」というようなことが一緒に出てくる。運気の情報は求めていないのに何故……とため息が出るのだ。
 こういった私の苦手意識はそういったものの新興宗教くささからくるものだろう。新興宗教は壺を買えば運気上昇というのをよく聞く、運気上昇厨はこの場所でおまじないを唱えれば運気上昇というような似通った部分が警戒心を奮い立たせる。しかし、運気上昇という言葉をこういったご利益があるというふうにしてくれれば飲み込みやすい。ご利益どうこうの話は神社側が提供する話であるからだ。
 苦手意識は彼らの欲に対しての姿勢からも来ている。彼らは自らの欲のために神社に行く、それが悪いとは言わないが欲というのは抑えるべきものだと思う。人には自分が抑えて出さないようにしている悪い部分があり、他人がそれを大っぴらに出していると嫌悪を覚えるという、まさにこれである。金が欲しいモテたいそういうのが運気上昇厨の方々の話を聞いていると伝わってきて嫌な気分になるのだ。
 ちなみに御朱印集めだけして神社の情報全く興味無いやつも嫌いだ

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