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『肉中の哲学』をレゴ🄬シリアスプレイ🄬メソッドの文脈で読む(2)第一章~第二章 ~p.23

 「第一章 イントロダクション:我々は何者であるか」の冒頭は次の3つの「認知科学の主要な三つの発見」と著者たちが呼ぶものから始まる。

 心は本来、身体化されている。
 思考はたいてい無意識のものである。
 抽象的概念は大幅にメタファー的なものである。

『肉中の哲学』p.12

 この3つを踏まえると、これまでの哲学は大きく答えを変えていくことになるだろうと著者たちは考えているようだ。哲学と言ってもかなり広範なので、より具体的な問いとなったものとして、「人とは何であるか」「道徳は何か」「われわれはいかにして宇宙の因果的構造を理解するのか」などを著者はあげている。

 これらの問いのうち、どのようにこれらの問いに迫っていくかを考えていくと著者たちは宣言をし、その最初にあたるのが「第二章 認知的無意識」である。
 ここでいう「認知的」とは「言語や意味、知覚、概念システム、それから推論に含まれるどのような操作や構造をも記述するという意味である」(p.23)。そして「認知的無意識」とは、それらの大部分(著者たちは95%でも過小評価としている)が無意識のうちに行われているということである。

 この無意識領域での働きを、(無意識的であると)我々は内省によって得ようとしてきたが、そこでは「心の中の善の自己と悪の自己の戦い」とか「表面的な自己が真なる自己を押さえつけている」といったようなメタファーによって表現されてきた。ここにはメタファーを使って人間が自分の思考を把握しようとする性格が見て取れる。

 よって、認知的無意識で起こっていることがいかにしてメタファー活用に結び付いているのかを明らかにする必要がある。そのときのキーワードが「身体化」ということになる。この「身体化」については次の第三章で語られることになる。

レゴ🄬シリアスプレイ🄬メソッドとの関係性

 レゴ🄬シリアスプレイ🄬メソッドも、その理論体系においては「無意識」が大きいことを前提にしている。

 無意識の具体的な仕組みについては言及していないが、その代わり、無意識はブロックで作った作品に反映されているという考え方に立っていると思われる。

 実際に作品を作った経験を内省すると、作品を意識的に作っていると感じる部分と無意識的に作っているという部分の両方があるという感じがする。 
 完全に意識的に作ったと思っていても、「どのブロックをどのように手を伸ばして指をどう使ってつまみ持ち上げて、どのくらいの力で…」というようには意識していないので身体動作のかなりの部分は無意識に動かしていると言わざるを得ない。

 つまり、無意識の領域もかなり関わって一つのブロックの作品が作られているといえそうだ。

 そこで重要となるのは、何かを考えることにおいて無意識の領域に重要なことがどれくらい含まれているのか、ということである。
 作品において無意識の領域のどれだけ大きく寄与している分かっても「何かを考え、適切な判断を下す」ことが意識の領域だけで十分に足りるとなるならば無意識の領域は不要でむしろ人間の思考にとって遠回りでしかない。

 私自身は他の本などで読んだことを想起すると「無意識の領域には、かなり重要なことが含まれている」と考えている。この後、この問いにどのように答えていくのかに注目して読み進めていきたい。

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