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バクーの夏休み、カスピ海で泳ぐ。

ソ連時代を知っているロシアの友だちに、往時のバクーの印象を聞くと、それはノスタルジックで、古い映画の中で観たような、夏休みの思い出が詰まっていた。夕刻、モスクワを出発する夜行列車、辿り着くのは、海辺の保養地。眩しい太陽、瑪瑙色のカスピ海で水浴びして、エキゾチックなスパイスの香りがする料理を堪能し、異国情緒の溢れる街並みを夕涼みでそぞろ歩く、さらさらと揺れるオアシスの木々。なんともうつくしい。

現代では、世界じゅうの多くの人々の頭の中に、油田とキャビア(チョウザメの養殖)というなかなかに二律背反的な典型イメージを獲得しているカスピ海だけれども、夏にはちゃんと泳げる(くらいにきれい)。海辺には豪奢なリゾートホテルがいくつもあって、このパンデミックの以前には、近隣の産油国の富豪たちがこぞって休暇を楽しんでいたとか。

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もちろん、海辺はバクー市民の憩いの場でもあって。ビーチクラブ、と呼ぶ日帰りの海の家の拡大版みたいな施設があって、幾ばくかの使用料を支払うと、ビーチパラソルだの寝椅子だのピクニックテーブルだのを一日使えるという仕組み。もちろんその場所にも、松竹梅と、豪奢なものから庶民的なものまで選択肢があって、それぞれに楽しい。

いちばん高価な部類は、2〜3,000円くらいの入場料(大人)で、海辺のリゾートホテルのプライベートビーチ、といった風情。海辺に瀟洒なパラソルとふかふかのマットレスのついた寝椅子を並べて、華やかなカクテルなんかを注文できるビーチ・バーがあって、水着のままでくつろげるプールサイドのテラス・レストランと、ちゃんと服を着替えて着席するようなシックなシーフードレストランを併設していたりする。加えて、子どもたちが熱狂しそうなウォータースライダーのプールや遊具施設なんかもちゃんとあって、家族連れも楽しい。こういうところで、日がな一日、日光浴をして、水色のカクテルなんかを飲んで寝そべっていると、本当にどこにいるのかわからなくなる。世界じゅうの大都市が、どことなく似通っているように、小洒落たリゾートも、どこも実はなんだか似ている。白い砂(アゼルバイジャンのはモルディブから砂を運んだという人工ビーチもある)、エメラルドグリーンの海、瀟洒な建物と、白い帆のようなガゼボ、椰子の木陰に、たわわに咲いたブーゲンビリアの花。

だからちょっとつまらない。優雅で、寛ぐけれど、退屈だ。せっかくカスピ海のほとりにいるのに。

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私が断然気に入りなのは、もっと個性的で、庶民的なビーチ。
リゾートホテル然としたビーチクラブのすぐお隣に、そんな地元の人達が集まるのビーチも点在していて、こちらは入場料は5マナト(約300円)とお手頃。朝早くから開いていて、まだ涼しいうちの海を楽しもうと、家族連れがどんどんやってくる。そう、こちらは家族の娯楽としての海。ビーチベッドよりも、屋根のついたピクニックテーブルが人気で、そこにお母さんが(持参の)きれいなテーブルクロスを敷き、(こちらももちろん持参の)大きなタッパーウェアに詰めた西瓜だのメロンだのを並べ、道中買ってきた焼きたての窯焼きのチョレーキ(薄焼きパン)や白いチーズもそれに加わる。トマトや胡瓜を、備え付けの水道でがんがん洗って、その場でサラダにしたりもする。そういう食卓を眺めているのは、本当に楽しい。西瓜には、塩ではなくってきゅっとしょっぱい白いチーズを添えて食べることだとか、海辺でもやっぱり熱いお茶を飲むことだとか、そういう習慣を教えてもらったのは、その夏の海だ。

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こういう庶民派ビーチには、たいていマンガル(BBQ)の食堂もついていて、炭火でじゅうじゅう焼いている羊のカバブなんかも注文できる。お祭りみたいで、楽しい。もしくは、目の前の海でその日にあがった魚を、調理して食べさせてくれる魚食堂がある。塩分が薄いカスピ海では、大きな鱗の淡水にいるような(私にとっては見慣れない)魚が穫れるのだけれど、ざくざくと切込みを入れてかりっと揚げてくれると、なかなかおいしい。大きなクーラーボックス(もしくは冷蔵庫)に魚が入っているので、これとこれをお願いね、という感じで好みの種類とサイズを選ぶ。揚げか炭火焼きかは、魚の種類によって変える。ちょっとこってり油の乗ったボラみたいな魚、カトゥムは開いて炭火で焼いてくれる。さっぱりしたカマスみたいな魚、スダックは内蔵を抜いたら、まるごとかりっと揚げて。アゼルバイジャンでは、このような魚料理には、塩をふって柘榴やプラムみたいな、酸味のある果実のソースをつけて食べる。ちょっと日本の梅だれにも似た風味で、すごくおいしい。もちろん、檸檬も合う。甘い香りの、南部ランキャランの檸檬。それに塩漬けのピクルスや、胡瓜やトマトの簡単なサラダと、竈焼きのパン、果物とお茶をつけた、4人分くらいの食卓を設えて、3,000円強くらい。とっても楽しい。

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イスラーム文化圏のアゼルバイジャンではあるけれど、服装の戒律についてはわりと緩やかなので、若い女の子たちは、(日本や他の地域でみられるのと変わらない)水着姿で、泳いだり日光浴をしたり、めいめい夏の海を楽しんでいる。年配のマダムたちの中には、ちゃんとスカーフをして、ゆったりと全身を覆うドレスを着ている方もあるけれど。パラソルや屋根の下の日陰に入れば、そよそよと風が吹いて、気温ほどには暑さを感じない。

ビーチバレーに興じる男の子たちのグループ、おしゃべりしながら熱心にサンオイルを塗り合っている女の子たち、その傍らには砂遊びのおちびたち、水の中でお父さんとはしゃぐ子どもたち、その一団をお母さんがごはんよう、と呼ぶ。

そんな明るく賑やかな夏の景色を、私はこよなく愛している。なんだか遠い記憶の、白くひかる夏休みのアルバムの写真みたいな。

あなたがもし、この創作物に対して「なにか対価を支払うべき」価値を見つけてくださるなら、こんなにうれしいことはありません。