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脳内サンプリング2

『ライクア脳内サンプリング』の制作からはや1週間。
ある程度形になったものを片岡フグリにデータで送りミックス編集をしてもらうことに。それまで人に頼む作業をしてこなかったせいでどういう形にしたいのかという説明をするのがすごく難しく、あらゆる角度でそれを出来るだけイメージ通りになるように互いにラインのやりとりで模索し合う。向こうはその作業に慣れているのか、めちゃくちゃ具体的かつ的確なアドバイスをくれてめちゃくちゃ助かる。早速送ってもらったサンプルもだいぶ具現化されていたし、そのレスポンスの早さに驚いた。そういうことだよな。なんにしたって。

それにしても週5、6の外仕事の中、それなりにハードワークなもんで体は疲れているが、その合間合間の休憩時間でサンプル聴いて創作のあれこれを考えて、また作業に戻ると次はここの草刈って車バックして草積んで〜とか考えつつやりつつ、また休憩で創作のあれこれ、、って気狂うわ!!(笑)
しかしこれがおかしなもんで、音楽制作以前からここんとこ東京チェンソーズの漫画に加えてインスタの個人的イラストアカウントでも週2で漫画を描くようにしてて、それプラスこのnoteも週1で描くようにしてて、そのばさばさばさっと現実と空想のラリーというかどこまでが現実でどこまでが空想かの境目もわからないような状態が習慣化されてくると意外と出来ちゃってる、出来ちゃった婚ですよねもう。やばいっすよ。自分で言うことじゃないけど。

それにふるさと帰郷へ向けて職場の人含め仕事でお世話になった方々へのほんの気持ちとしての似顔絵イラストを同時進行で描きまくってて、それも総勢20人近くいるので、もはや自分が今何やってんのかわからない状態。あっぱっぴーな状態。でも体は動いてるし脳も止まらない。どこまでもどこまででも。なんかずっとお祭りが続いてる感じです。

それもそのはず、今までとより違うのは、いやそもそもがそっちスタンスなんだけど、ある程度お金を払えばインスタントに得られる手っ取り早い快楽、たとえばコンビニ飯だとか冷凍のお惣菜だとか(もちろんそれが悪いという訳ではなく)で済ますよりある程度余裕のある限りは自分の為に自分に料理を振る舞ってあげるとかって行為って、言語化しにくいんだけど、なんかじんわりと胸があたたかくなる幸福感を得られるんですよね。そこ重んじ過ぎちゃうとほんとに余裕がない時に無意識の義務感にかられて余計疲れちゃうからそういう時は普通にコンビニで適当に済ませることもあるけど。

今特に必要なものって「コスパ・タイパ」より「熟成・醗酵」って感じある。
短期的に報酬を得られる快楽より一旦寝かせたり時間をかけて創り上げる動作を繰り返すことで得られる手応え感の方が記憶にも残る。なんせドラマチックさがある。人生にドラマチックさってめっちゃ必要だなあと。

こないだだってスーパーで100円くらいで鯛の頭がたくさん入ったのを買ってきて、なんにも調べず、「とりあえず大根だろ!」と大根も買い、圧力鍋にそれらをぶちこんで、「とりあえず味噌と料理酒と砂糖で味付けすればなんとかなるかなー、あとしょうがも刻んで入れよう!」とか考えながら作って、ほんと手づくりって言葉がモノづくりと同じ使い方っていうか、クラフト、実験、体験って感じで毎度毎度新鮮で楽しいんですよ。
しかもちゃんとオチがついてて、ウロコとるってことを忘れてて(というかそういう概念が欠如してた)、出来上がったはいいものの箸でウロコをいっこいっこ取りながら食べて、全然ごはんにいけないっていう(笑)
そんなのも込みで手応えを確かめるって作業がめちゃめちゃ大事な気するんすよね。

千葉雅也が落合陽一とのYouTubeの番組の中で中上健次についての話をしてて、彼は「小説は電話が出来たからダメになったんだ」と。
彼(中上)が中東へ行った時に少年が連絡を伝えるのに何キロも先まで走って伝えに行ってたのに、電話が生まれたことでその必要がなくなった。「その道のりが小説だったんだ」と言っていたそうで、それは小説において以外でも言える事で、今は「街を歩く」という感覚も、ただあらかじめ目的が決まっててその目的を達成する為だけの行為というか、それこそ久住昌之さんが「食べログのレビューの確認作業」という言い方をしていたけど、そこに偶発性はなくて、すべて「こうだからこう」というパターンの中を歩いてる感じになってる。リスクを負う必要もないし、安心に安全に事を終えるのみ、きっと人生すべてにおいてもなんの負荷もなくやり過ごせればそれでいいんだろうと思ってるのかもしれない。

一方で養老先生も、「昔は『しょうがない』という感覚があったけど、地震やコロナを経て、やれ行政は仕方がないなんて言えないわけで、『なんとかします、対策を講じます』とかなんとか言っちゃう。それで世の中が危険とか不安というものに対してより過敏になって、どうにか不安要素を自分の中からかき消そうとしている」というような事を言っていた。不安要素を取り除くといっても、自分でじゃなく市や町や県や国を当てにして。
というかそこまで行政や自治体なんかがそういうふうに今まで手厚くサポートし過ぎたとこに問題があるのかもしんない、過保護っちゅうか何ちゅうか。


もう「生きる つらい どしたらいい」とかググっちゃう時代だからなあ。 、自分の人生をグーグルに委ねちゃってるとこあるもんなあ。


「ドラマチック」に話を戻す。
JR東海のクリスマスのCMで深津絵里や牧瀬里穂が駅のホームで待ち合わせてドキドキしてるあの感じ。あのCMを観るといつだってたまらない気持ちになる。それは、スマホがある現代、あの世界はもう二度とやってこないんだなって絶望感も含めてよりドキドキする。あれもやっぱり「わからない」っていう世界から生み出される産物で、今だってそれなりのインスタントな、ジェネリックなドラマチックさは得られるけど本物がどこにもない感じがただ寂しい。「わからなさ」って人を不安にさせるけど、その偶発性に経て感じる、みぞおちあたりをポーッとあっためるあのあったかさは何物にも代えがたいものがある。

20代のぼくの中に「飛行機で帰るのめんどくさいから自転車で帰る」という感覚があった。確かにあった。あんまり理解されないかもしれないけど。それを実際に実現したのが23くらいの時で、『自転車逃亡バラード』と銘打って、東京から宮崎間を20日くらいかけてTwitterで実況しながら帰った。絶対に飛行機で帰省するのとはまったく違う手応えがあった。そんなもん偶発性の連続でしかないでしょ。ほんとにドーパミンだかアドレナリンだかバーバー出まくりで、毎秒新しい風景が全身に吹っ飛んできて、これは自分史に残る大きな出来事だなという実感があった。

人間にはそれぞれに背景というものがある気がしていて、それは第一にそのひとが育った風景が大部分を締めていると思う。
先日三重のマコンデ美術館に行った時にティンガティンガという、タンザニアで生まれた絵画スタイルで描かれた絵が飾られていて、それがすごいよかったんだけど、それを一緒に見た三重在住のダダオさんが「ティンガティンガ好きなんだけど、ぼく好きなのこれじゃなくて、背景にその地元のシンボル的な山が描かれたやつなんだよねー」と言ってて、ほうほうなるほど、と。その人たちにとっての背景のしっくり感みたいなものがあるんだとその時思って。だから東京で仲良くなった人の背中にある背景というものを、つまりそれぞれの育った地元を見てみたいって感覚が最近すごいあって、沖永良部だとか兵庫の西脇とか、そこが地元の友達がその場所に立った瞬間にピタッとハマるというか、なるほど!と合点がいく気がするんす。そのティンガティンガにあるしっくり感に近いものが。そこで一気にバーーーーっとその人の幼少期・小中高の風景が走馬灯のようにコマ送りになって立ち現れそうな感じがする。そこが決してその人が本来居るべき場所であるとかそんな話ではなく、もちろんぼく自身も地元に対してはいい思い出も悪い思い出もあるから全肯定なんてする気はさらさらないんだけど、ただそこの土を踏みしめた事実みたいな、そこを歩いてた歩幅とかペースとか体に染み付いてる感じに興味がある。あの角を曲がる感じめっちゃわかるー!っていう。

なんていうか、例えば、例えになってないかも知んないけど、ぼくの釣りの師匠である池田さんは30年近くみなかみの奥利根に渓流釣りに通ってて、池田さんが発する「みなかみ」って言う発音の感じが、初めて「みなかみ」と口にする発音とぜんっぜん違くて、もう板についてる「みなかみ」なんですよ。おー名人芸!みたいな(笑)だからぼくは池田さんの発する「みなかみ」が好きなんです。
だからこないだも電話した時に「ちょうど今日みなかみに釣りに行った帰りですよ〜」って言っててなんかワクワクした。

つまりその、切っても切り離せない体に染み付いた感覚って絶対あって、ぼくにとっては都会を歩くテンポやリズムや歩幅より、宮崎の地元を歩くテンポ感の方がしっくり来てる気がしていて、それを確かめたいってのがある。
もっと言えば、今回作っている『ライクア脳内サンプリング』も、ただ地元だけじゃなく、これまで生きてきた中で自分が通ってきたすべての風景が、体に染み付いた風景が走馬灯のように立ち現れる瞬間のような作品を曲とMVで現したいなーと思ってて。解説ってめっちゃ野暮なんだけど、なんだかそういうことを言いたくてつい。

なにもない人生って誰ひとりとしてなくて、その人その人が通ってきた風景を見たいしこっちも見せたい。だからある種すべての創作物は自分の中に凝縮された風景であり、脳内サンプリングだなあーって思うんです。その風景を切り取って、紙吹雪のようにバラ撒いて、風に舞って太陽に透けて、自分と他人との境目がなくなるくらいに溶け合いたい。阿呆ですかねえ。



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