見出し画像

前に進め、未来につなげるために

オホーツクに行ってきた。

岐阜での丸一日取材を経てそのまま泊まり、翌日オホーツクに初上陸して北海道に二泊。オホーツクの玄関口である女満別空港から飛んで、さっき中部国際空港に帰還。

最後、女満別に到着してから帰りの飛行機が取れていないことが発覚するというよくわからない事態が発生したけれど、本州に帰ってきた。オホーツク、どうしようもなく離れがたかったんだけどな。帰ってきたな。

オホーツクの大自然を全身でいっぱいにくらい続けたら何も消化できなくて、とりあえず空港のスタバに着地した。

さっきからね、なんなら今朝みんなが起きる前に一人でオホーツクのだだっ広い道を散歩していたときから、涙が止まらないんですよ。この生々しいごちゃまぜの感情を、受け取りきれていなくても何かを握ろうとしてる手のひらのざらざらとした感触を、書かねば消化できない。



画像1

やりたいことがあんまりない。

受験の第一志望は自分で決めたような気がしていたから自分は決められる人なのかと思ったのだけれど、それは選択肢が限られていたからだと後からわかった。

やりたいことの根源にある欲求も、かなり弱いような気がする。ずっと、そこそこ満たされてきた。親に「あなたは挫折したことがないから人の痛みがわからない」と言われてきた。

でも、どうすればいいのかわからなかった。絶望したことがないことが唯一の絶望だった。平和にのうのうと生きてきてしまったことがコンプレックスだった。いじめも見たことなくて、本当にごめんなさい。

自分はからっぽ。だから人のインタビューをして自分の中身をその人の物語でいっぱいにして、文章にする仕事を続けているんじゃないかと考えた。

特にやりたいことがないけれど、インタビューさせてくれた人にやりたいことがあって、そのやりたいことをもしかしたら後押しできるかもしれない。

自分には語りうる物語がなくて、でも物語を聞かせてくれたその人に染まったら、その人の物語は声を大にしてたくさんの人に語れる。

だからずっと、取材させてくれた人に何かを返したいと思っていた。貴重な時間を割いてまで物語をからっぽの私に託してくれたその人に、少しでも感謝を形で示したかった。


でも、今年の頭に職人さんを取材して書いた伝統工芸の記事を経て、何のために書くのか、ずいぶん感覚が変わったように思う。少しだけ、何かのはじっこをつかんだ。

インタビューさせてくれた方々に貴重な時間をいただき、「手紙」を託してもらったからには、人生の先輩たちに何か少しでもお返しできるような「返事」を書きたい。そう思っていた。(「何のために書くのか」の備忘録

ずっと、手紙を渡してくれた前の人ばかり見ていた。自分が受け取った物語は前の人のものであって自分のものじゃないから、自分の手には「受け継ぐ」ものなんてないと思っていた。

継ぐ家も地元もなく、何でも選べるけれど何も選べない自分は、ずっと個であり点だと思っていた。手紙は自分の手で止まっていた。いっぱい受け取って、抱えたままになっていた。

そんな自分が職人さんをインタビューするなんて、とても怖かった。

140年以上の歴史を背負い、覚悟を持って挑戦を続けている職人さんがつくるお茶筒は、100年先まで残るものだ。事実として、100年前につくられて代々使ってきたお茶筒を修理に出す人が、後を絶たない。

お茶筒をつくれるはずの時間で、100年先に残らなさそうな私の記事のためにインタビューを受けていただく。その覚悟がなかなか決まらなかった。編集担当に「自分で企画出したんでしょ」と笑われながら、逃げ出したくなっていた。

前提として、人に時間をもらうことにいつも緊張感はある。ただ、普段は取材を前にしても緊張はしない。そんな私がこんなにも取材前に緊張したのは、正直初めてだった。

取材させてもらって原稿を書くときも、あまりに素晴らしい言葉ばかりもらってしまったから、その方の名言集のような初稿になってしまった。その方にもらった手紙の内容をそのまま読者に伝えないともったいない、と思った。編集担当に「きくちの悪いところを凝縮した記事」と言われた。

でも記事を書いている期間中、滋賀の先輩が「きくちは何のために書くのか」と問い続けてくれた。

記事を通じて、誰にどうなってほしいか、どんなことを感じてほしいか、社会がどうなってほしいか。それはきくちの哲学。その哲学と取材対象の言葉をつなげて編集するから、記事はきくちの言葉なんよ。

きくちじゃなくてもできる編集は、きくちのためにならない。きくちのためにならないことは、誰のためにもならない。

そうなのか、そうだったのか。

「インタビューさせてくれたお返しとか考えんな。これは順番なんや。きくちはまた次の世代に返せ」と言ってくれた。

共通点なんてないと思っていた職人さんと自分の仕事が、少しだけ接続された。手紙を受け取る自分も、伝統工芸とそこに込められた願いと意志を次に継いでいく一人だと初めて知った。

私が書くべきなのは、「手紙」をくれたひとに書く「返事」ではないんだ。

私が先輩たちから受け取った「手紙」。その「手紙」と私自身の願いを込めて、次の「手紙」を書く。この言葉を受け取ってくれるあなたの明日に、その次の誰かにつながるように。(「何のために書くのか」の備忘録

インタビューさせてくれた職人さんから受け取った、言葉という手紙。この手紙を自分の手元で止めておくんじゃなくて、手紙を自分のなかに満たして自己満足にひたるんじゃなくて、返事を書くんじゃなくて。

手紙を受け取る前とは違う、手紙を受け取った後の「自分」として。自分のままに自分の言葉で新しい手紙を書いて、次につなげ。

初めて、発売日に「ここからつなげていかなきゃ」と思った。自分の手紙をつないでいく役割が自分にはある、それを引き受けねばいけないと思った。

だからとても珍しくFacebookにもポストしたし、できれば同世代に読んでもらいたくて大切な友人たちに「もしよかったら、これを読んでほしい」と連絡した。こんなこと初めてした。

そして今まででいちばん、たくさんの方から感想をもらった。

茶筒を作る方の記事はじ~んてゆっくりと響いてきています。今も。

この記事の中では「偉人」ではない方がいます。
生の存在として、ぼくらと同じ人間として生きてきて、迷ったり悩んだりしながら生きてきたから、ずいぶん遠くに背中がみえるこの方の姿が描かれているように思えます。(大切な知人のFacebookより)

友だちからもらったメッセージにも、「仕事中にふと、記事に書いてあった言葉を自分に置き換えて考えた」とあった。「日常の中で思い出すって良い記事だね、ありがとう」と言ってくれた。

職人さんと会ったことがない人が、私の記事で職人さんを知り、日常でふと思い出す。職人さんから手紙を受け取って書いた自分の手紙を、誰かが受け取ってくれて、その誰かの仕事に反映されてまた次の人への手紙になる。

そんな奇跡あってたまるかよ、最高だ。あまりにもとうといと思った。

ぜんぜん完璧じゃないけれど、まだまだだけれど。この記事は今の自分だから書けた、自分の手紙だ。そこに誇りを持てる仕事をしよう、と思った。



その後が、きつかった。

だって、その時点での「最高」を最高のまま終わらせておけるほうが楽だ。いつまでも「あの記事は最高だった」って過去にしみじみしていれば、もうボロボロになって闘わなくていい。

いっそ筆を折りたい、と何度も思った。

もう書きたくない。何も書けない。こんなに難産であのインタビューを書いたのに、その後もう何を書けるんだよ、といきどおった。


そんなときに、次の特集記事のための岐阜・北海道出張が決まった。

伝統工芸の、次の号。何を書けるんだろうという恐ろしさを抱えつつ、でもまた次につなげるのかもしれないというふんわりとした光に惹かれてしまって、新しい物語に出会いに岐阜と北海道に向かった。

うっかり破裂した。

岐阜は岐阜で情報量が多かったし、オホーツクの大自然がとんでもなくとんでもなかったのもあるけれど、伝統工芸の記事を経た今回は、取材中の感覚が明確に違った。

岐阜では、朝から晩までたくさんのメンバーさんの言葉を聞かせてもらった。北海道では三日間。しかも取材対象の周りの方々も遠くから集まってくれて、撮影にも登場してくれた。協力してくれた人数分の時間を足したら、もう相当取材のために割いてもらっている。


すべては、次につなげるために。職人さんの記事を経てそれしかないと思ったから、取材中から、取材のためにもらっている時間をどう次につなげるのかを考えていた。

そう考え始めると、ぜんぶまともに打ちくらうしかなくて、感情がぐちゃぐちゃで、でもなんとなくこれをつなぎたいような気がする予感に必死に手を伸ばして。

この時間をぜんぶ次につなげるには、自分はどういう態度で生きるのか。こんな考え方で取材したのは初めてだった。

さのさんが、引き継がれて引き継いでいくものの話を聞かせてくれた。必ずしもイコール土地ではなく、どこにいても何をするにしても、何を引き継ぐのかに自覚的であるかどうかでその先が変わるよね、と。

取材をすべて終えた今、気持ちはまだまだぐちゃぐちゃだけれど、少し前の逃げ出しかった感覚は消えた。

まだやりたいことはよくわからないような気がする。けれど、何をしていても、何かを引き継がれて引き継いでいく自分でありたいし、あるんだろうし、そこに自覚的でありたいと思った。

次につなぐ記事を書くことの重みから逃げ出したかったけれど、筆を折っても折らなくても同じなんだった。それなら、逃げ出そうとするのはもうやめようと決めた。

そして、引き継ぎたいものは少しずつ手元に増えている気がする。今回の取材でも、ずいぶん増えた。だからまずは、引き継ぐ者であることの覚悟を決めよう。

人生において何を引き継ぐのかをまだ決めきれていなくたって、まずはいま目の前で引き継がれたものを自分の言葉でしたためて、その次に引き継いでみよう。そこからはもう逃げないでいよう。

それくらいに、今回の取材で未来にまきたい種をたくさん受け取った。心を決められたのは、出会ってくださったみなさんのおかげだ。

本当にありがとうございました。

迷いと悩み、会社と仲間の素晴らしさをまっすぐに教えてくれて、岐阜の見え方をガラッと変えてくれた今尾さん。壮大なオホーツクをくらわせ続けてくれたさの兄さん。特にさのさんには、ほとんど悩み相談をしていたような気もするけれど。

ああ、今回の取材は、覚悟を決める旅だったのかもしれないな。もう、未来につなぎたい仕事しかしない、って。



ずっとさのさんが教えてくれた銀杏BOYZを聞きながら、終電の時間になったからスタバを離れて電車に乗り、滋賀に入ってようやく書き終わった。

これを書いて、ようやく少しだけ、ぐちゃぐちゃが晴れたような気がする。そろそろ家が近づいてきた。

ああなんかもう、恥ずかしいくらい行けるような気がしてる。
前に進め、前に進め。 『二十九、三十

最後はもちろん、さの兄さんの誕生日ブログリスペクトで。

さあ、書くぞ。



ついしん:

今回の旅路はこちら。

運転してくれてありがとうございました、本当に。

ずっと同じ目線で話してくれたさのさんに、感謝でいっぱいだ。気負うなって言ってもらった。かろやかに覚悟持っていたい。


長らくいろいろ迷っていたけれど、岐阜と北海道を経て、たくさんしゃべってさの兄さんに悩み相談して、ここから少しずつ定めていく予感がする。

というか単に決めていなかったから、そろそろ決めていく道すじを整えようと思った。力を注ぐ先も配分も、ここから変えていく。動き続けよう、走り続けよう。

前に進め、未来につなげ。

画像2

さの兄さんと、家の近くの道で。 photo by はらちゃん

言葉をつむぐための時間をよいものにするために、もしくはすきなひとたちを応援するために使わせていただこうと思います!