自然科学と、無神論と。サステナブルなモノゴトの捉え方。

僕は積極的無神論者、だそうです。「背景は様々あれど、神も法も、人間が社会秩序の為に一生懸命考えて生み出した概念や規範でしょ」と言い切ってしまう時点で、そのようなのです。
天国、輪廻転生、運命…全部そう。それら人が作った概念がいつの間にか、人間を超越した存在として支配的になったり、人間自体を生み出したかのように逆転した形で語られ始めると、ゾッとする(拒絶反応がある)側です。

確かに、自然現象などは人の理解や対応力を大きく超えているため、それを擬人化するなりして畏怖・警戒することは必要だったんだと思います。運命と割り切り、納得するしかなかったこともあるでしょう。現代ですらメカニズムやシステムが分かってない現象の方が大半なわけですし、そもそも、何らかの必然よりも、偶発的な事象の積み重ねの方がきっと多いでしょうから。

かと言って、神が…霊が…輪廻が…と言い始めた時点で思考停止です。理解や説明がつかないものに対して、継続的な観察を放棄し始めている証拠です。特に、生物や資源、循環や再生を語る時に、神や神秘を口にする人は、多様な仕組みや可能性に対して「まるで分かったように語りたい」病に罹っているのではないでしょうか。

そういう方の話を聞いていても、ずーっと、言葉遊びに終始しているんですよね。まるで地球や生命の摂理を解き明かしたかのように「真理」や「摂理」を語りたがるのです。ハイコンテクストにすれば、なんか良いことを言っている感じになるアレ、ナゾなのです。SustainableやRegenerativeとかの単語が飛び交うようになった最近、特に増えました、こういう方々が。

(注: 宗教家はストーリーテラーに近い職業で、アメとムチの小咄と儀式を普及して社会秩序を保つ役割だから、それはそれで良いと思います。映画や噺家みたいな伝統芸能・コンテンツ産業ですね。信者もそれを愛して止まないファン&お布施の関係なので良いと思います。)

一方で、そうしたスピリチュアルな語りに乗ることもなく、いつか世界を解明するなんて果てしない挑戦を諦めず、謙虚に事象に向き合って観察や分析を続けていく「科学」と呼ばれるアプローチこそ、人間の知的欲求の現れです。

誰かが発見・解明したと思っても、また新しい発見で覆っていく学びの世界。「真理を探求し続ける」、つまり「今の正しさは、いずれ覆る(かも知れない)」という姿勢のまま、議論や新しい発見に向き合うこと。まるで賽の河原の石積みのようですが、短絡的に神や運命などと結論づける姿勢とは比べるべくもない、有為な試行錯誤です。まさに終わりなき「持続的な活動」と呼べます。

自然や現象について現代科学ではまだ解明できていないことが沢山あるからといって、人間が作り出したコンセプト(神など)が正しい、とはなりませんよね。
にも関わらず、神や神秘を語り、宗教にハマりやすい人は、①教育水準が低く短絡的な結論や安心を求める人、だけでなく、②教育水準が高く自分が説明や理解ができないことに忍耐できない(自尊心の強い)人、にも多いそうです。なんとなく分かります、ね。

あくまでこれは僕の個人的な意見ですが、こういう方々というのは、いわゆる教育水準とか、勉強ができる/できないという話ではなく、「自然科学的な教育・体験が少ない」だけな気がします。誤解のないように補足すると、自然に触れる教育・体験が足りないという意味ではなく、「自然科学的・観察科学的な物事の見方・関わり方が身についていない」の意味です。

答えなんかすぐに見つかるわけない。一意で決まる正しさなんかない。ほとんどが偶然の重なりだろうだけど、その中でも小さな単位で再現性のあるメカニズムやシステムがきっとあって、観察しながらそれらを見つけられたら嬉しい!それが全体解ではなくても、超複雑な関わりや繋がりについて新しい気付きや議論が得られてワクワクする!…みたいな状態が「自然科学(観察科学)的な物事への向き合い方」だと思います。

※補足になりますが、「知識偏重教育が良くない」と(知識はイノベーションのタネにも関わらず)言われているのは、誰かに教えられた正解を口にできるかに偏り、この「正解なき試行錯誤や観察や議論という営みが身につかない」ことを指摘している、と僕は理解しています。

しかし、研究者さんはもちろん、作家やアーティストさんにはこういう「観察者」的な営みをされている方が多いように思いますし、この観察科学的な姿勢はすごくニュートラルでヘルシーだなぁ、と思う今日この頃です。

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