見出し画像

小川洋子の創作法「ストーリーより描写」。ストーリーは人間の欲望。描写は神の認識への道だから。世界のヨーコはどこまでも謙虚なのだ。

「私、ストーリーは重視しません」 

 世界のハルキとヨーコ。
    村上春樹さんと小川洋子さん。三島や川端以来、現代の日本文学で今「世界の」と冠することのできるのはこの二人だけ。

 その小川洋子さん。
 小説を書く作業の上で最も重視しないのは「ストーリー」だといいます。   
 念のため繰り返すと、「ストーリーは重視しない」。 

 小説って物語のことなのに?
 さすが世界のヨーコ。言うことが常人と違う、と思いながら、じゃ、何を大切にしているかと、彼女の発言を少し追ってみれば、「とにかく描写につきる」というのが盛んに出てくることがわかる。

 外面に現れたものの「描写」を徹底して行って、見えてくるものが小説の核になるというのです。
 ストーリーはそれを容れる入れ物に過ぎない。
 人物の描写なら、その人の内面に踏み込まないというのが、彼女の鉄則。なぜなら、そんなことは「わからない」ことだから。

 なるほど。人の内面って目に見えるものではない。でもそれを書くのが小説じゃないの?と、さらに食い下がってみる。

心を澄ませて見つめまくる

 そこで小川さんは、創造したその人物の風貌、持ちもの、住んでいる部屋の様子などを、それはそれは事細かに描写していくのです。
 決してその人の「内面」に踏み込もうとはしない。
 すると何が起こるかというと、読者は人物の外面や周りにあるものだけが頼り。だから、読者の数だけ読者の中に人物の内面が生まれるのです。

 そんなんでいいの?
 いいのです。
 というか、そうでなければならないのです。
 なぜなら、現実世界でも、そうなっているのだから。

 作者の自分でも、わからないものはわからないとしなければならない。  
 小説だからといって、作者が縦横無尽にふるまえば、足場となる大切なリアリティを失う。

 真理は神のみぞ知り、右往左往しているのが人間というもの。世界がそうである限り、小説世界もそうでなければならない。作者は神として振る舞ってはならない。少なくとも「私にはできない」。

 もう一人の「世界のヨーコ」でありながら、とてつもなく謙虚。
 いや、だからこそ、世界のヨーコなんだ。

映像を書き取るように描写していく

 小川さんの「描写」の特徴は、境界が極めて明確、つまり、輪郭がはっきりしていること。
 彼女にとっては、最もリアリティ性を持つ器官である「視覚」から生まれる情報が最重要。
 着想があっても、映像が生まれてくるまで書くことはない。その映像を書き取っていくというのが自分の執筆スタイルだといいます。
 読者は同じ映像を自身の中に形作ることができる。これがリアリティの源泉となり、だからこそ、空想と現実が断絶しない。

 幻想文学の澁澤龍彦も強調するところです。
「何度でも言う。幻想は何かあいまいなものの表現ではない。幻想は、幾何学的ともいうべき精緻な描写があってこそ、現実の隙間を押し広げるのだ」と啖呵を切っています。

 作品の風合いも女性作家的でないのはこのせいか。といって、男性的でもない。小川洋子的なのだ。

芥川賞選考委員としての思い

 芥川賞選考委員を長く務めているが、かなりのストレスの様子。受賞作が年々、ご自分の本意から大きく外れていき、日本文芸に相当な危機感をお持ちのようです。 
 自称「神さま」たちの作品に賞を与えなければならないことは、編集者ならいざ知らず、書き手たる彼女自身、忸怩たるものがあるのでしょう。
 時には選考会場を後にしてもすぐホテルの部屋に戻ることができず、気を落ち着かせるために、夜の公園をぐるぐる歩き回るしかなかったこともあるといいます。

 ケンカ腰で辞めた石原慎太郎と異なり、自分は評論家でなく現役の作家なのだから、自分にも作品で現していく責任がある、として批判精神を垂れ流すことは決してなさらない。
 しかし、請われれば、過去の日本文学や自分の作品の解説をエッセイやインタビューや講演などで積極的に行っていて、そこに小川さんの本心を垣間見ることができます。

ストーリーは人間の欲望。描写は神の認識への道

 独自の存在でありながら、孤高を気取ることもしない。
 出版社が集中する東京で執筆生活をしなかったことも、そんな小川さんを作ったんじゃないかと思えます。東京にいれば、稼がないといけない編集者の接待に日々まみれる。情に流され、自分の書きたいものを見失う羽目になっていたかもしれません。

 ストーリーではなく描写に徹する。
 ストーリーは人間の哀しい欲望。
 描写は神の認識への道。

 そんなことを思いながら、削除されるのを承知でwikipediaに「作風」を新設して書いたら、出典を示したこともあって、未だに削除されない。
 
 いいぞ。
 小川洋子的なるものの価値が広まりますように。



Wikipedia「小川洋子」

作風は、日本の伝統である「私小説」からは遠く、内田百閒川端康成の幻想小説に近い。初期から現在にいたるまで題材は変化しているが、物語展開で読者にカタルシスを与えるのではなく、現実の隙間にあるどこでもない場所、それ故に普遍的に存在するような異世界を描く。初期の装飾的な文体が次第に鳴りを潜め、幻視感を恐怖だけに頼らず、平易な文体で表すように変化して、円熟味を増している。

小説を書くときに一番重要視していない要素は「ストーリー」だとし、「とにかく描写につきる」という。人物の内面という形のないものから構想を始めるのではなく、まず、場所や情景や物など、人物の周辺にあるものが語りだすまで徹底して描写を膨らませ、映像化する。自分はそれを書きとっているというイメージだと語る。ストーリーはそれらを収めて読み手に届けるための器であり、人物の内面はそれぞれの読み手の中に生まれるもの。ストーリー自体で見せようとするのは小説というものの本来的な目的ではないとしている[24]

随筆も多作であり、「描写につきる」作風は小説と同様に一貫している。

Wikipedia 小川洋子「作風」


(関連記事)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?