映画「パピヨン」 (1973) 人生を無為に過ごした罪・・・。自由を求めて生きる。そのとき、すでに自由は手中にある。
スティーブ・マックィーンとダスティン・ホフマンの主演映画「パピヨン」(1973年)。監督は「猿の惑星」のフランクリン・J・シャフナー。
あまたある脱獄映画の一つですが、脱獄方法の奇抜さやスリルだけの映画ではありません。
映画の後半、パピヨン(マックィーン)は夢を見ます。
無実を訴えるパピヨンは「人生を無為に過ごした罪により、有罪…」といわれ、妙に納得する。
なんのこっちゃ、と思えるこのシーンに、この映画の一大テーマが込められています。
2度目の脱獄に失敗したパピヨンは、独房に入れられます。
清潔な制服に身を包んだ所長が陽を背にパピヨンを見下ろし、あわれみの視線とともに短い訓辞を垂れる。
5年後、虫を喰いながらも独房生活を生きながらえ、陽の下に出されてきたパピヨン。それはまるで、ひからびたミミズ。5年前の血気盛んだった時の面影はみじんもない。
うずくまるパピヨン。
5年前と同様、陽を背にパピヨンを見下ろす所長。
この所長がいい。
5年前のシーンとまったく寸分たがわない風体で登場します。その服装、表情、立ちふるまい。
パピヨンは見る影もなくやつれ、5年間という時間をまったく無為にすごしたように見えながら、頭の中は脱獄という夢に人生を燃やしてきた。
所長はといえば、役目をことさらに几帳面にこなすことでやっと人生を支えている。
パピヨンを見つめる哀れみの目は、同時に、自分自身の姿をも見つめ、その先にはパピヨンへの羨望さえ湛えている。
人生を無為に過ごした罪。
いったいどちらが重罪なのか。
囚人でなくても、つねに希望に燃えていない限り、自由人に見えるその人生もその日常も、牢に安住する囚人たちと同じく重罪なのではないか?
ただ。
この所長のどこまでも実直な様や、映画のラスト、パピヨンの最後の無謀な脱獄を見送るドガの表情に現れる羨望と諦念。
これこそ、大多数の人々がもつ重く平凡な人生感そのものかもしれません。
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