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夢のさなかが過ぎてから

最近聞きながら気付いたことがある。
相手の話を夢中になって聞けるのは幸せなことだ。

それだけといえばそれだけなんだけど、その「夢中」は意図しては訪れない。どこかでうわの空になる。メタの自分が客観視している。その時は夢中とは言えない。

相手の話を聞きながらの夢中は、相手の話すグルーヴと、それを受け取る聞き手の循環が、見事に合致して訪れる。相手の話の面白さはもちろんだが、その面白さに至る助走や、話の導きや、その導きによって引き出された「ここだけの話」や、互いの循環や、対話をしている空間や、視線の交わし合いや、身振り手振りのミラーリングや、そんな色々が即興的に交わされ、ダンスのように身を任せながら、それが気づけば「夢中」になっている。

夢中のさなか、それは夢の中だから気付かない。
覚めてからこそ、「あ、今は夢だったんだ」と気づく。
夢は「目指すもの」という意味合いと、「寝ている時に見るもの」という意味合いがあるが、まるでどちらにも居るかのように、話を聞きながらの「夢中」に居るのに気付くのは、得てして夢中が過ぎてからだ。

その最中、夢の最中が幸福だ。
自らの幸福そのものを客観視するのは難しい。
それはとても、とてもとても自分に近いところで感じる種類のもののように思われる。

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