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「フツー」なんかないよ!

先週末は琵琶湖の湖西エリアで、昨年秋のヴィジョンクエストでお世話になった方たちを迎えて、感謝の会行ってきた。

ヴィジョンクエストとはこちら↓(実はまだ書き終わってない感あるけど)


ヴィジョンクエスト2023については音声配信で↓何回か話してます

琵琶湖に集まった拡大家族のメンバー(仲間たち)は、小学生から還暦過ぎまで。
関西中心に、遠く関東や甲信越からも、普段は物理的に離れていても、繋がりを感じる面々。

その中に初めて会う二十代前半の女子がいた。4年間ヴィジョンクエストを続けてきた仲間の娘さん。

夜、大広間に雑魚寝状態で眠りについていると、同じ部屋でその彼女と、みんなの兄貴分(あるいはなぜかお母さん⁉︎的存在感がある)が、飲みながら話している声が聞こえてきた。

眠気半分、いつのまにかきいていると…彼女は学生時代、不登校だったようだ。その後、いくつかのアルバイト経験はあるけどいずれも長く続かないそう。
どういう経緯でそういう話になったのかわからないが、そんなことを兄貴分にこぼしていた。

「フツーに働いたりできないの。学校行ってなかったからだと思う。どこか仕事行っても敬語とか使えない。あと職場のやりとりも苦手。仕事行ってそういうの嫌だなぁって思うから続かないで辞めちゃう。なんでフツーにできないんだろう。フツーになりたいのに」

わたしは半分寝ていながら、半分は意識あるような状態でしばらく二人のやりとりをきいていた。
兄貴分はさすが、教育現場やフリースクールでの経験が長いこともあるのだろう。諭そうとか言い負かそうとかは一切せず、彼女の気持ちに寄り添ってずっと話をきいていた。

わたしだったらそこまでできたかなぁ。恵まれてるからそんなこと言えんねん。ほんまに働かなあかん状況やったらそんなこと言うてられへんで!…そんな風に言ってしまうかもしれない気持ちもどこかにあった。

でも「フツーになれない」「親の期待に応えられない(むしろ、応えたくない⁉︎)」という彼女の話には共感していた。わたしも若い頃は「フツーになれない」「社会に馴染めないフツーじゃない自分はやっていけるのか」そんな不安や葛藤をずっと抱えていた。

「フツー」「フツー」
「フツーになれない」「フツーになりたい」
何度も繰り返される「フツー」にイラッとしてきたのかもしれない

「フツーなんかないよ!」
思いがけなく、ひょんなことから、そんな言葉がわたしの中から出てきた。
ふたりと何人かが飲んでる卓からは1メートル離れた位。みんなからは当然寝ていると思われていたわたしが、ふいに発したことばに一瞬、その場は呆気に取られたようだった。

でも、話しを続けたり起き上がるとほんとに目が醒めてしまいそうだから、「フツーなんかないよ!」ただ、その言葉を発しただけで話に加わらず、そのまま寝入ることにした。
兄貴分がそれを受けて言ったような気がする。「今日ここに来てる人、みんなフツーやないで。社会的落伍者や、フツーに生きられへんねん」

兄貴、よう言ってくれた、ほんま、そう。
「フツー」なんか、やっぱりないのだ。誰か、何かが、当てはめる基準を「フツー」と呼ぶ世界がある、として。その「フツー」が合わないのなら、そうでないところに行けばいい。あるいは、基準を自ら作り出すのだっていいのだ。

「フツー」ってなんだろう。「フツー」ってなぁに?

会社組織とか「フツー」に馴染めないわたしは、20代後半に遅めの就職をして、なんとか周りに合わせようと自分なりに頑張ってみた。結局、合わなくて退職することになって泣き目を見たこともある。
でも、いつのまにか、おばさんというような年齢になって、「フツー」でなくてもなんとかやっていけるんや、ってことを知っている。

それから、もしかしたら親に言われたことばが、若いうちは特に記憶に残ってたりすることがあるのかもしれない。「フツー」「フツー」ってよく親御さんに言われてたのかな?
でも、そんなことも、こちらが根に持っているのに、言った本人はそんなこと忘れてる、っていうこともある。さらに、自分自身が年を取れば、誰かに何か言われたことさえ忘れていたりすることだってある。

「フツーなんかないよ!」
わたしがそうだもの。外れたら外れたで、わたしにとって、わたしがスタンダードでしかない。
若いNの話のようでいて、どこか自分自身が力をもらった。
これまで生きてきたわたしに。
これからもフツーでないわたしに。

「フツーなんかないよ!」
悩んでいたNが、その「フツー」の呪縛から解かれて、強くたくましく、自由に生きていってほしいな。


「フツーなんかないよ!」
フツーでないわたしたち、万歳!


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