『未来のミライ』感想

※この記事は、2018-08-09にぷらいべったーに投稿した記事の再掲です。


細田守作品は私小説だ。

細田作品には、細田監督の今の人生観と現在地が詰まっている。ほかのことは、基本的にあまり入っていない。だから世代を超えた感動や、ハリウッドのようなエンターテイメントを期待しても、だいたいその期待は肩透かしに終わる。今回の映画は特に顕著だが、元々それは、彼の作品によくある傾向だった。

細田監督が描こうとしているのは彼のごく個人的な考えや今の心の持ちようであって、果たしてそれは万人受けするものではない。彼を宮崎駿の後継者扱いするのは間違いだ。宮崎駿の後継者レースに担ぎ出されることによって、人は彼の作品に世代を超えた感動やハリウッドのようなエンターテイメントを求めてしまう。不幸な連鎖だと思う。

やや脱線するが、宮崎駿の後継者候補と目されている幾人かはみな、大なり小なりそれぞれに独自の世界観を追求する形で作品と向き合っている監督だ。彼らの追求するスタイルはそれぞれに独創的であり、ごく個人的であり、ごく偏ったものである。

だから宮崎駿の後継者レースという捉え方自体が、もはや意味を成さないものになっていると思う。宮崎駿がアニメ映画の一強だった時代は終わり、アニメ映画は群雄割拠の時代になったのだ。黒澤映画しかなかった時代が終わったのと同じように。手塚マンガしかなかった時代が終わったのと同じように。

結局、自分に合う監督の作品を探して観るしかないのだ。「この夏の大衆映画はこれを観るべき」みたいな売り方は、だんだん時代にそぐわなくなってきている気がする。



わたしは細田映画が好き、というより、細田守という人のことがわりと好きだ。ただ、彼の作品は本当に彼の現在地しか描いていないので、人の親となった彼の今と、そうでないわたしの今とが乖離していけば、必然彼の気持ちに寄り添えなくなっていくかもしれないという危機感は常に感じている。

わたしが細田作品に一番強烈な没入感を感じたのは『おおかみこどもの雨と雪』だった。映画館で一人で観たとき、こんなにひとつの映画で泣くことはもうないだろうというくらい、全編通しておいおい泣いてしまった。

のちにインタビュー記事を読んで、あの作品が細田監督と奥様が妊活されておられる最中に作られたものだと知り、分かる気がするなあと思った。あの物語は、子育てに対する切ない憧憬に満ちている。

『サマーウォーズ』は彼が結婚するにあたり奥様の親族の仲間入りをすることについて考えているときに生まれた作品だ。『バケモノの子』は念願の子どもが生まれ、父親になって考えたことが詰め込まれているという。

こんなにも、その作品を作っているときに考えていることが分かりやすい人もなかなかいないのではないかと思う。その分かりやすさもとてもキュートで、憎めない人だなと思う。



さて、前置きが長くなったけどようやく『未来のミライ』について。

今回の作品では兄妹の姿がメインで描かれているけれど、これは細田監督に第二子が生まれたから。あー分かりやすい。

そしてこの作品では、彼はエンターテイメントたろうとすることをすっかり放棄している。『おおかみこども』を観ていても、この人ぜんぜん子ども向けに映画作ってねえなと思ったけど、『バケモノの子』ではなんとかエンタメに寄せようとしている努力が感じられた。

からの、本作。もう「伝わるやつにだけ伝われ」みたいな感じに投げられる、監督の今考えてることの嵐が、たいへん心地よい。うんうん、もうそれでいいよ細田と肩を叩きたくなる。この人の作品を観ていると、そんな親近感を勝手に覚えてしまう。

恐らく、細田監督は第二子にしてようやく子育てに本格参加されたのでしょう。『おおかみこども』の菩薩のような母親像や、『バケモノの子』の「父親不在でも子どもは環境に育てられる」みたいな諦念に近い希望とも違う、リアルな子育て観がそこにあった。

泣きわめく赤ちゃんと赤ちゃん返りする長子に振り回されながらも、妻を立て自宅勤務に奮闘する父親は、きっと細田監督自身の理想の姿なのだろうと思う。

「うまくいかなくても、情けなくてもいいから、家族にやさしい男でありたい」という監督の小さな願いが感じられる。子どもが泣いたとき、妻がヒステリーを起こしたときに、怒鳴ったり言い返したりイライラしたりするのではなく、ひたすらアワアワする父親。子どもが「パパ、遊んで」と寄ってきても、仕事に夢中で生返事を返し、まともに相手をしてあげる余裕のない男。

一家の大黒柱らしい頼りがいのある親父にも、誰でも公平に対応できるゆとりをもった素敵なお父さんにもなれないけれど、力で相手を打ち負かそうとしたり、威圧的に対応するような男にはなりたくない。いつも家族のいちばんの味方でありたいという切なる想いが、あの父親像に詰まっているように感じた。

これは完全に想像なんですけど、『バケモノの子』を作ったあと、彼は奥様に怒られたではないかという気がします。「あなたね!子どもは勝手に育ってるんじゃなくて、あなたが何もしないで映画作りに没頭している間に、わたしが頑張って育ててるんですからね!」と。

(前作『バケモノの子』でも『おおかみこども』でも、子どもは父親から離れて勝手に成長していく。そこに監督のひとつの想いを見るのであるが、妻にとってそれは無責任にも感じられるのではないかという気がしたのであった)

そんで反省して、子育てを物語るのなら自分もきちんと子育てに取り組まなくては!と腕まくりをした今回、子どもとがっぷり組み合ったことで生まれたのがこの『未来のミライ』なのではないかと思う。

子どもはわがままで、気まぐれで、理が通らないことも平気でする。今日一歩前進したように見えたのに、明日になったら後退していたりする。子育ては日進月歩ではなく、一進一退だ……そんな理不尽さを、面白さを、肌で感じた監督が「これは書き留めておきたい」と感じたことの羅列、まるで子育てエッセイのような作品だ。

その「エッセイみたいな感じ」を、退屈だ、話に一本筋が通っていないと感じる人もあったかもしれない。けれどこのぶつ切り感こそが、一進一退こそが、監督が子育てに対して感じた印象そのままなのだろうと思う。



先程「宮崎駿の後継者扱いはもうやめよう」と書いたばかりで舌の根も乾かないうちに宮崎作品の話になってしまうが、今作では『となりのトトロ』のオマージュを匂わせる場面が出てくる。

くんちゃんがおっとっとを父の作業するテーブルに並べるところは、一人遊びをするメイが「お父さん、お花屋さんね」と言いながら父の机に花を並べる場面を想起させる。

『トトロ』の父はメイの並べた花を見てにこりとしてくれるが、今作の父親はくんちゃんのごっこ遊びに付き合うどころか、彼が父と遊びたがっていることにまるで気づかず、仕事に没頭している(この理不尽なまでの父親の無関心さは、監督自身の反省によるものであろう)。それに腹を立てたくんちゃんは、妹の未来ちゃんの顔におっとっとを載せるという形で父に逆襲したのち、中庭へと出ていく。

そして中庭で、ぽつぽつと点在するおっとっとに気づき、それを拾うことで初めて、中庭から繋がる不思議な世界へと歩みを進めていく。この場面によって想起させられるのは、点在するどんぐりを拾ううち中小のトトロに出会い、大トトロの眠る森の奥へとメイが引き込まれていく場面である。

細田監督は、今作の中庭の場面について「くんちゃんの空想である」とパンフレットのインタビューで答えているらしいと聞いたが、この場面がトトロを連想させるということは、(インタビューを読むまでもなく)中庭での出来事は幼いくんちゃんにとって、トトロとの邂逅に近しいものであると読み解けるのではないだろうか。

トトロは本当に存在するのかどうか、存在するとしたら一体トトロは何者なのか。その答えは『となりのトトロ』に明言されてはいない。しかし幼いサツキとメイにとってはトトロはきっと絶対に「存在した」し、トトロの存在によって彼女たちの成長は促されてもいる。子どもの頃にだけ接することを許された不思議な存在、大人の知らない子どもだけの冒険……それが『となりのトトロ』という映画に描かれている。

サツキとメイは、両親の不在時にトトロたちに助けられ、ひとまわり大人になっていく。もしかしたら彼女たちが出会ったトトロは、彼女たちの心の中にいる存在なのかもしれない。くんちゃんにとっての中庭も、きっと同じではないかと思う。

あの中庭での出来事がなければ説明できないことはたくさんある。普段大人しい犬のゆっこが突然はしゃぎ回ったのは何故なのか。誰がお雛様を片づけたのか。どうしてくんちゃんは突然自転車に乗れるコツを身に着けたのか。……それを大人の視点で説明しようとすることは、「トトロとは何か」を説明するようなものだ。大人にとって確かにそれは気になる問題だが、子どもたちにとって一番重要なのはそこではない。大事なのは、サツキとメイにとって、くんちゃんにとって、何が成長のトリガーになったのかである。

彼らの成長を促したのは、導き手である親の存在ではない。親の与り知らないところで彼らは大きな存在と出会い、そこからとても大切な何かを学び、親の知らぬ間に大人への階段を上っていく。

しかしだからといって、親は彼らと向き合おうとすることを放棄してはいけない。子どもを愛し、彼らの挑戦を応援し、見守る。それが親にできることである。

親だって完璧な人間ではない。子どもが未熟なのとそう変わらず、親だって未熟だ。しかしそんな親子が寄り添い合って家族ができ、家族が脈々と繋がって、歴史が作られていく。

『未来のミライ』に込められた監督のメッセージがあるとするならば、そんなものだとわたしは思う。



この作品で、細田監督の作品世界はひとつの完成を見たと感じた。ミクロからマクロへと物語を展開していくスケール感は、細田監督の持ち味のひとつだ。

ひとつの家庭に焦点を当て、家というステージからほぼ出ることなく物語を描き切っているのは、くんちゃんという主人公一人の内面により深く入り込みたかったからであろう。そのくんちゃんが家の中から家族でキャンプ旅行に出掛けることで、今作の幕は下りる。家という閉ざされた舞台装置から降り、開かれた世界へ。それは家族というミクロの関係を描き続けてきた映画のラストシーンにふさわしい、マクロへの転換である。

細田監督のお子さん(特に長子くん)は、大きくなってこの映画をどう観るだろう。

「ぼくはこんなにワガママな子だったのか」と顔を赤らめるだろうか。「恥ずかしいよ、親父」と父の赤裸々な愛にいら立つだろうか。

何にせよ、彼の成長はもちろん細田監督の願いであり、また父の監督として、表現者としての成長そのままでもある。

彼らの健やかなる成長をお祈りして筆を置こうと思う。素敵な映画をありがとうございました。


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