『シン・ゴジラ』感想

※この記事は、2016-08-15にぷらいべったーに投稿した記事の再掲です。


作り手たちの「日本人」への強い信頼が感じられ、それが何より涙腺を緩ませた映画だった。
同時に、これまでゴジラを作り上げてきた特撮文化への敬意に裏打ちされた、「ゴジラ」の圧倒的な恐ろしさも強く印象に残った。

日本人はゴジラを自分たちのものとして愛し、畏怖し、自分たちの手でゴジラを扱う(倒す)ことに誇りを持ってきた。だからこそ、ゴジラを軽んじて扱いたくないという信念を感じた。
日本人なら誰もがゴジラを知っているし、その存在に親しんでいる。下手したら、「かわいい」とさえ思われているかもしれない。
そんな中で、更にCGなどの技術が進化し続ける現在にあって、それでも「ゴジラ映画」を「特撮」という文化の中で、今一度「未知の恐ろしい存在」「災害」として撮りたいという強い意思。
わたしは正直、特撮にもゴジラ映画にも疎いけれども、だからこそなのか、その心意気と愛とに強烈に胸を打たれた。

日本人は真面目で、勤勉で、辛抱強く、高い技術力を持つ民族である。今一度、その日本人としての矜持を思い出してほしいというメッセージを感じた。
映画に登場する人物は誰もが真面目で、勤勉で、辛抱強い人たちである。
彼らは自分の身に突如降りかかった状況を嘆くより早く、それを何とかしようと必死に戦い、淡々と困難を乗り越えていく。彼らは言う、「お礼は結構です、仕事ですから」と。
死を目前にしても、勝利を確信しても、彼らはほとんど表情を変えない。なぜかというと、それが「現実」であるからだ。
ドラマチックに描こうとするなら、勝利の瞬間には歓喜が沸き上がり、人々は抱き合って喜ぶべきである。恐怖を共に乗り越えた男女には恋愛感情が芽生えるべきである。しかしこの映画の作り手はそのカタルシスを選ばない。その代わりに我々が目撃するのは、避難所から「当然のように」「でも少し弾んだ足取りで」家に帰る人々の姿である。その場面に込められたメッセージに震える。
ゴジラは現実には存在しない。しかし、同様の状況はいつ起こるかわからない。地震によって、或いは他国からの侵略や攻撃によって、或いは核の脅威によって、我々が当たり前に送っている日常は、突如としてパニック映画に成り代わるかもしれない。
フィクションの目的は、ただ娯楽を提供することではなく、視聴者が現実に戻ったときに作り手から受け取ったメッセージをどう人生に活かすか、であるべきである。
もちろん教訓ばかりがフィクションの存在意義ではないが、かといって物語がただ現実からの逃避だけに使われ淘汰されてしまうのでは、クリエイターが魂を削ってまで産み出した作品の価値は貶められてしまうのではないか。

そういう意味でも、この映画はたくさんの示唆に富んでいた。
思いがけない災害に直面したとき、日本人はどのように行動するのか。我が国の現状で、緊急事態に対応するためには何が不足していて、何が邪魔をするのか。
それを乗り越えるだけの力が、今のわたしたちにあるのか。
考えなさい、考えて今の自分を変えなさいと言われている気がする。そういった、観たものを突き動かすことのできるメッセージを、作品に込めることのできるクリエイターの力強さに、感嘆する思いである。

日本人は勤勉な民族である。
彼らは目の前の仕事を、誰に褒められることも求めずに淡々とこなしていく者たちである。
作中、大規模な作戦が展開されるにあたり、高い技術力と、不可能を可能にするだけの人的投資が必要になる。
作中の人物はそれを当たり前のように「企業に外注した」と言うが、ということは、そこにたくさんの人が関わっているということだ。命を危険に晒しながらも、避難の機会を逃しながらも夜を徹してプロジェクトに参加した人がきっといるということだ。
しかし彼らが恐怖に震えながらも必死の作業に明け暮れるカットは挿入されない。その姿はきっと視聴者を感動させるだろうに、彼らにスポットは当たらない。何故ならそれが彼らの「仕事」だからだ。彼らは日本人で、日本人は仕事を勤勉にこなすことのできる人種だからだ。
作り手の、日本人への強い信頼を表す場面は、上記以外にもたくさんある。
黙々と仕事をこなし、仕事のために命を投げうてる日本人。混乱のさなかにあっても、列を守り避難誘導の指示に従って動ける日本人。壊されゆく町の片隅にある職場の店舗内で、持ち場を離れず事の推移を見守る日本人。部下を信用し、必要とあらばいくらでも他人に頭を下げられる日本人。
その日本人の血が、わたしたちにも流れている。そのことに誇りを持とうと言ってくれる映画があることの頼もしさ。
だからこの映画のカタルシスは、ハリウッド映画とは違う形でもたらされるべきなのだ。

『エヴァンゲリオン』で描かれた、未知の生物が突如襲い掛かってくることの恐怖。
それに英智で立ち向かおうとする姿の美しさ、潔さが凝縮されていた。
観ながら『進撃の巨人』を想起したのはわたしだけだろうか。あれもまた、未知の圧倒的な力を持つ敵に知恵と勇気で立ち向かおうとする人間たちの姿が描かれており、本作とラップする部分が多い作品である(樋口監督は実写版『進撃の巨人』を手掛けていることも忘れてはいけない)。

また個人的には、ゴジラが最初に上陸した場所が自分の住まいと勤務地にほど近く、映る場所や名称に馴染みが深いということも、この映画を自分のことのように感じられた要因だった。
でも元々ゴジラ映画はきっとそういう楽しみ方をされてきたのだろう。東京タワーが、国会議事堂が破壊されることによって、それが架空のどこかで起こっていることではなく、すぐそこで起きていると視聴者が錯覚するための仕掛け。
よく知る場所がゴジラに破壊される場面には、恐怖と同時に沸き起こる快感が確かにあった。「あ、あの場所だ!あの町が襲われている!」と分かることからくる心の震えは、恐らく日本謹製の特撮映画でしか味わえなかったものなのだろう。
その快感を、更に高次の「災害対策意識」にも結び付けようとする作り手の貪欲な意欲。そこに痺れ、憧れる。
これほどの作品を作り上げる制作陣のモチベーションはどこから来るのか、これほどメッセージの詰まった、監督のエッセンスが豊富に詰まった作品を作り上げた後で、更に期待される大作をも手掛けようというエネルギーは一体どこから来るのか。
日本のトップクリエイターのパワフルさを心強く思う反面、その底力に畏敬の念をも覚える。

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