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私が「アンサングシンデレラ」を観る理由。

本当は観る事を躊躇ってしまう。
そこは私が目指していた世界だから。
眩しくて辿り着けなかった事に、また心がえぐられるかもしれない。
でも、観ずにはいられない。
例えそれが全てフィクションで
現実世界のものとはかけ離れていたとしても
自分が見られなかった景色を見られるなら…。
そう思いながら毎回観ている。

高校1年生の時
2年から文系と理系に分かれる為
どちらに進むか決めなれけばいけなかった。
それと同時に、私はあまり考えた事のなかった
将来の自分について
具体的に考えるきっかけになった。

1つ目の答えはすぐに出た。
理系に進もうと。
当時は数学と化学が得意で地理や歴史が大の苦手だったからだ。
そして理系に進むと決めた後
その後の進路についても考えた。

単純なもので
理系=医療系か工学系という認識しかなく
工学系について考えてみても
具体的な想像が出来ず胸躍るものを感じなかった。
医療系は簡単に想像が出来た。
進む進路=職業に繋がっているものが多かったからだ。
そして私は自分の性格から
看護師は向いてないと判断し
医師になるほど勉強を頑張れる自信はなく
薬剤師という選択をした。
それは驚く程自然な流れで
その時から私の進路は薬剤師への道となった。

ここでも転勤族の話が出てくる。
高校3年になる直前、4月から父が東京へ転勤する事になった。
東京には先に家を出ていた兄達もおり
父は兄達と東京で暮らし
私と母は高校卒業まで残るという事になった。

一人暮らしをして大学に通うという選択肢は
正直あまりなかったと思う。
私の頭が国公立の薬学部に入れる程ではなかったので
私立の薬学部に通うとなると学費が半端ではない。
両親と相談した結果、大学は東京にある所を目指すという形で私の受験は始まった。

今思えば、もっと受験勉強を頑張れば良かったと思う。
みんなきっとそういうものなのかもしれない。
私は友達と比べてもかなり不真面目だった。
授業は真面目に受けていたが
放課後にそれぞれが自習をしている時など
身が入らず他のクラスに遊びにいったり
息抜きばかりしていた。

その頃はまだ薬学部は四年制だった。
近い将来、六年制になる事も分かっていた。
だからなのか倍率は恐ろしく高く
担任の先生にも
「私立でもどこでも薬学部に入れるだけでラッキーだ」と言われた。

それでも薬学部一本で受験をした。
東京の大学を受けるとなったが
住んだ事もないので土地勘はなく地理が分からない。
だからとりあえず東京近辺の住所の薬学部は頭のいい所以外は殆ど受験した。

案の定、サボっていた私に受験の女神は微笑んではくれなかった。
予定していた所は全て落ちてしまい
もう行く所がなかった。
浪人生になるのかという不安に襲われながら
今から受けられる所をと探し
2カ所だけ見つかった。
でもその2カ所のうち1つは
自分の偏差値では到底無理であろう大学だった。
もうダメ元で受ける事にした。

そして約1ヶ月程東京に残り
睡眠・食事以外は部屋で勉強をする日々を過ごした。
我ながらあの時の集中力は凄かったと思う。
ことごとく不合格で良い意味で開き直り
肩の力が抜けていたのだろう。

ダメ元の大学の受験日は卒業式の前日だったので
受験後にすぐ飛行機で帰ることになった。

不思議な事に、その大学の試験は初めてスラスラと問題が解けた。
試験後、これでダメだったら仕方ないとさえ気持ちよく思えた。

父が大学近くまで迎えに来てくれて
羽田まで送ってくれた。
その時の事を今でもはっきりと覚えている。
私の顔が凄くすっきりとした表情だったから
大丈夫だと思ったと
後日、父に言われた。

今でも不思議だが
絶対無理だろうと思っていた大学に合格したのだ。
何故か受験の女神は最後に微笑んでくれた。
家族も友達もなかなか進路が決まらない私をかなり心配してくれており
受かったと知らせた時はみんなが凄く喜んでくれた。

なんとなく、私はこの大学に縁があったのだろうと感じた。

華の大学生。しかも東京。

それだけ聞くとさぞ楽しそうな気がするが
実際はそんなドラマや漫画に描かれる世界とはかけ離れていた。
毎日午前中は授業。午後からは実習。
実習は1つでも単位を取れなければ留年。
学校と家を往復する毎日で
飲み会やらコンパやらそういうものに参加した事がない。
もちろん、同級生にはそういう事も楽しんでいた人はいただろうが多くはなかった。
毎日、レポートに追われている生活だった。

大学で出来た友人は入学式の時たまたま近くにいた人達だった。
クラスもバラバラだったが、それでも離れる事はなく
一緒に過ごすようになっていた。
幸いにもその友達はみんな優秀で私はいつも教えて貰っていた。
入学したのもたまたまだと思っていたので
勉強は頑張らないとついていけない自覚はあった。
なので優しくいつも教えてくれる友達に助けられた。

そんな友達達も今はどうしているのか分からない…。

頑張っていたつもりだった。
この大学の学力に達していない、たまたま受かっただけ。
だから何とかついていこうと頑張っていたと思う。

無事に3年生になった頃、私の身体に異変が見え始めた。

大学の最寄り駅についたのに
大学まで足が向かない。
電車に乗ると息が苦しくなる。

最初は体調が良くないんだと思っていたが
どうもおかしい。
電車は人が多いからダメなのかもしれないと
早起きをして混む前の電車に乗るようにしてみた。
…それでも息苦しい。
始発に乗るくらい早起きをしても学校に辿り着くのはやっとだった。
でも大学は休めない。
特に実習は出席が絶対条件だ。
午後からだけでも通うようにしてみた。
電車の混み具合はだいぶマシになる。
それでも息苦しさと動悸の激しさは落ち着いてくれなかった。

ただ、友達と一緒だとまだ少しマシだった。
だから帰路は友達と必ず一緒に帰った。
今まではたわいもない話が楽しくて時を忘れていたのに
いつからか「あと何駅」と心の中で数えるようになった。
そしてついに、友達がいてもダメになってしまった。
友達は物凄く心配してくれる。
一緒だと大丈夫だと思ったのにこれでは迷惑をかけるだけだ。
それからは何もかもが怖くなってしまった。
友にも距離をおいた。
自分の事が分からないから説明も出来ないし
一緒にいる時に具合が悪くなり
迷惑をかけたくなかった。

その時期、何度も近くの内科に通っていたが
先生に心療内科を受けてみないかと提案された。
無理にとは言わない。受けたくなったらいつでも紹介状を書くから。と。
診察室を出た後、一緒に来ていた母に告げた。
「心療内科に行きたい」

自分ではどうにも出来ないという限界を感じていた。
その頃は心療内科は今よりハードルが高く
気軽に行ける場所ではなかった。
「何か悩みがあるならお母さんに話して」
母にそう言われた時、やっぱり娘を心療内科には連れて行きたくないのだと感じた。

今でもだが私と母は気持ち悪いくらい仲がいい。
私は母に殆どなんでも話している。
その時は母にそう言われても何を話せばいいのか分からなかった。
自分で自分の身体が分からず怖かった。
そしてもう一度伝えた。
「心療内科に連れて行って欲しい」と。
涙が溢れていた。

それから今も心療内科には通っている。
色んな先生の元を訪ねた。
その事はまた他の機会に記そう。

大学3年の時
後期の実習の出席日数が1日か2日足りずに留年となった。
担当の教授に何度も何度も頭を下げに行った。
教授から返ってきた言葉はこうだった。
「若いんだから1年くらいやり直してもいいでしょ」

私はトータルで7年間大学に通った。
休学と復学を繰り返したが
莫大な学費ととにかく自分が元気にならないと何も始まらないという結論に至り
いつか復学したいと思いながら退学をした。
結局、3年より上には進めなかった。

大学3年生。
就職説明会などが始まり自分の進路を考え始める。
当時、いくつかの進路を思い描いた。
その中の1つが病院薬剤師だった。

私の母校は他の大学と合併し名前が変わってしまった。
薬学部は四年制から六年制に変わり
学ぶ範囲も更に広くなっていた。
そんな状況では復学は難しく
1年からやり直すという方法くらいしかないそうだ。

それから私は医療系の仕事には関わらないように生きてきた。
薬剤師の人を見ていいなぁと思うのも嫌だし
何より薬剤師という仕事について私は何も知らないからだ。
あんなに学んでいたのに実践に入る前に脱落したので
今では薬学部に通っていたと胸を張って言えない。言いたくない。

そんな私の前に「アンサングシンデレラ」が現れた。
原作は知らない。
でも薬剤師が主役のドラマ。
私がなりたいと思った病院薬剤師だ。
実際に薬剤師になれていたら
選んだかもしれない職業だ。

単純に知りたい。
その世界を。

そんな想いで観ている。

これは私が何かに向き合っていると言う事なのだろうか?

ふとそんな事も思う。

観ていて全然楽しめないけど
きっと最後まで観続ける。
だって手に出来なかった世界を知るチャンスなのだから。


思いつくままに書いた為
長文で分かりにくい箇所も多々あると思います。
改めて訂正していきますが
この事に関して久しぶりに吐き出せた言葉を
とりあえず大切にしたいと思い
手を加えず載せました。
お見苦しい点はお許し下さい。



仮にサポートを頂けましたら大変貴重ですので大事に宝箱にしまいます。そして宝箱を見て自分頑張ってるねと褒めてあげます(〃ω〃) ♪