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『人間は「見えないもの」を信じることができるか?』について考える


【0.はじめに】

2024年1月28日、「X(Twitter)」で以下のようなポストを目にしました。

『日本人の多くにとって、信仰とは「装置」を体験することではないか』
『装置=寺社仏閣は受容できるが、伝道者がいれば成立する信仰は洗脳、カルトと拒絶されがち』
『しかも根底に習慣化したものは非宗教、見知らぬ教義と非日常は宗教とする意識がある』

まあ、確かにこのような傾向はあると思います。
しかし日本人だけではなく、多くの人に共通する傾向でもあると感じます。

なので、2022年11月13日のNote記事「なぜ宗教(宗教家)は弾圧されるのか?」で『どうも人間は目に見えないものを信じることが苦手なようです』と書きました。

そして最近、Xで『恋とか愛とかって何なんだろう?』という議論を見かけたので、この際だから自分の考えをNote記事にまとめてみようと思い立ちました。

『人間は「愛」など「目に見えないもの」を信じることができるか?』

宗教的に言い換えれば

『人間は「神の愛」や「仏の慈悲」など「目に見えないもの」を信じることができるか?』
『もし信じることができるのならば、「何によって」信じるのか?』

考えていきたいと思います。
※この記事はマンガ「オフィス北極星」のネタバレを含みます。
 ネタバレが気になる方は、ブラウザバックをお願いいたします。

【1.「星の王子さま」の場合】

『人間は「見えないもの」を信じることができるか?』
この命題について真っ先に思いついたのは、この物語でした。

「星の王子さま(原題:Le Petit Prince)」

フランス人の飛行士・小説家である「アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ」の代表作となる小説
1943年にアメリカで出版され、以来200以上の国と地域の言葉に翻訳されて、世界中で愛読されている物語です。

物語の主題は『肝心なことは目に見えない』

児童文学の体裁をとっていますが、目に見える「物質主義」にとらわれ、目に見えない「肝心なこと」を見失っている大人たちへの皮肉・批判が込められています。

『心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ』
『かんじんなことは、目に見えないんだよ』

サン=テグジュペリ 「星の王子さま」より

これはアニメ版「星の王子さま プチ・プランス」のOPナレーションでも語られていますね。

『この物語を世界中の子供たちにまた自分が子供だった頃を忘れがちな大人たちに、そしてうわべだけでなく物事の本当の美しさを見つめる勇気を持った全ての人々に心からの友情を込めて送ります』 サン=テグジュぺリ

アニメ「星の王子さま プチ・プランス」OPナレーション

現代でも、この「星の王子さま」の主題に共感を示す人は多いと思います。

アニメ「星の王子さま プチ・プランス」OP
「星の王子さま プチ・プランス」

『だけどあるんだよ、見上げてごらん そのうちキミにも見えてくるよ』

【2.「オフィス北極星」の場合】

もう一つ思い出した物語があります。

「オフィス北極星」CaseⅧ 「日本人の孤独」

「オフィス北極星」は1993年から1998年にかけて連載されたマンガ。
「法廷もの」の体裁をとっていますが、物語の主題は「文化摩擦」

時は1990年代初頭。
「バブル景気」を背景に多くの日本企業が海外進出し、それに伴って多くの日本人が海外に羽ばたきます。

しかし、文化・習慣が日本と大きく違う海外に戸惑う日本企業、そして日本人が続出します。
当時、日本にとって「最も身近な外国」だったアメリカでもそれは同じでした。

しかもアメリカは「訴訟大国」
文化・習慣が違う中で「日本流」を貫く日本企業や日本人に対する訴訟が相次ぎます。

主人公の「ゴー」こと「時田強士(ときたごうし)」は、日本の損害保険会社のアメリカ駐在員。
アメリカの文化・習慣を理解しない日本企業に飽き飽きしていたゴーは、ある日占い師から『「北極星の目」を持つ男』と呼ばれ、『近く転機が訪れる』と予言されます。

予言を信じ会社から独立したゴーは、リスクマネジメント事務所「オフィス北極星(Office North Star)」を開設。
訴訟大国アメリカで翻弄される日本企業や日本人を相手にリスクコンサルタントをはじめます。


CaseⅧ「日本人の孤独」は、物語の中でもとりわけ「文化の違い」が悲劇を生んだ話でした。

「両親の離婚によって精神的苦痛を受けた」として、両親に「100万ドルの損害賠償」を訴えた14歳の少年。
彼の真意は『なぜこんな事になったのか知りたい』でした。
しかし日本人の父親は離婚後日本に帰国、子どもを引き取ったアメリカ人の母親は「薬物依存」で話を聞ける状態ではありませんでした。

古代ローマからの伝統「法は家庭に入らず」という考えがまだ強かったアメリカでは、未成年の子どもが両親を訴えても受け付けてもらえない可能性がありました。

参議院法制局HP 「法格言」より

ましてや「両親相手に100万ドルの損害賠償」は前代未聞、勝訴する可能性はほとんどないと考えられていました。
それでもゴーは依頼人の少年の真意を受けて、真相を探るべく離婚訴訟専門の弁護士と奔走します。

調査を続けるうちにゴーは、この問題の原因が「日米のコミュニケーションの違い」によるすれ違いだと気付きます。
いわゆる「ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化」の違いですね。

ゴーはビジネスパートナーの弁護士など周囲のアメリカ人にそれとなく原因を説明しますが、どうも解ってもらえそうにありません。
それでも依頼人の意を汲んで、母親を薬物依存から回復させ、父親も日本から呼び出して裁判を成立させます。

法廷では、アメリカ人妻が「夫から受けた仕打ち」を証言します。

・夫から無視された
・まるで存在しないかのように扱われた
・一度も『愛してる(I Love You)』と言われたことがない

そして薬物に手を出した決定的な仕打ちを証言します。

夫の秘書から『夫は同僚からの誘いを断るときはいつも「ウチの妻は角の生えた悪魔だ」と言っていた』と聞いた。


私には「日本人夫はアメリカ人妻を愛していたし、息子たち家族を大事にしていた」と感じます。
家族を大事にしていなければ、夫は同僚からの誘いを断らなかったでしょう。

「ウチの妻は角の生えた悪魔」のゼスチャーは、「あんまり飲み歩いてたらカミさんに怒られる」程度の意味であり、真意は「家族を大事にしているから君とは飲みに行けない」だったのでしょう。
「カミさんに怒られる」は一種の「照れ隠し」ですね。

日本人夫はおそらく当時40代後半で、現在は70代後半から80歳ぐらいでしょう。
良い悪いを別にして、いわゆる「団塊の世代」の夫婦ではごく普通のコミュニケーションだったと思います。
おそらく日本人夫の両親もあんな感じだったから、「それが普通」と思っていたのでしょう。

しかしアメリカ人妻には悲しいほど伝わっていませんでした。
アメリカ人妻も、自分の両親がしていたように「毎朝『I Love You』と言って、行ってきますのキスをするのが普通」と考えていました。

・自分と夫は愛し合って結婚した
・自分は夫や家族を愛し、夫に尽くしている
・でも夫は自分に『I Love You』と言ってくれない
・そして自分のことを『悪魔』だと言った
・夫は自分や子どもを嫌っている風にも見えない
・なのになぜ?理解できない!!

これが妻を薬物依存に走らせ、離婚から一家離散へと至った原因でした。


アメリカ人妻の証言に法廷は騒然となります。
日本人夫は『秘書が中途半端に日本語を理解した故の誤解だ!』と反論しますが、その反論は受け入れられませんでした。

最終弁論で日本人夫は次のように証言します。

・私が家族を愛していることは事実だ、私の国では言葉がなくても愛は伝わる
・父が子を心から愛することは語らずとも明らかなのだ、私はそんな文化を誇りに思っている

ゴーとパートナーの弁護士は勝訴を確信します。
それでもゴーは『裁かれるべきは日本人夫だけではない』とつぶやきます。

判決は原告勝訴、日本人夫に50万ドル(当時約6,000万円)の「懲罰的賠償金」支払いが命じられます。

結審後、日本人夫は我が子にこう問いかけます。

・50万ドルは大金だが、生涯をかけて必ず支払う
・自分は「男の生き方」を身をもって示してきたつもりだ
・50万ドル、どう使う?

息子は『まだわからない、でも自分のためには1セントだって使わない』と答えます。

日本人夫は満足したような表情を浮かべ『しっかり生きろ、ママと妹を頼む』と告げ、法廷を後にしました。

ゴーの周りのアメリカ人は日本人夫の真意が解らず、ゴーに説明を求めます。
ゴーは『オレにそれができるぐらいなら、こんな事件そのものが起こらなかったさ』と語り、1人去っていきます・・・。


このケースで悪いのは、やはり日本人夫でしょうね。
彼は自分でも自覚している通り「ひとりよがり」過ぎました。
それでも「彼だけのせいか?」と問われると、言葉に詰まります。

アメリカ人妻が「心で見て」いたら、夫の愛情が見えたんでしょうかね・・・。

「オフィス北極星」 7巻より

【3.ひるがえって「宗教」の場合】

ここで最初に戻り、宗教の場合を考えてみましょう。

キリスト教(とその元となったユダヤ教)では「天地万物を創造した神」が、「その似姿として作った人間」を愛しているのは自明とされています。

その証拠に、神は人間に十戒をはじめとする「律法」を与えました。
律法は「人間への神からの呼びかけで、神への道を示すもの」であり、同時に「人間を悪から守り、すべての人の良心を照らす光」でもあります。

因みに「天地万物を創造した神」は、とにかく細かいことまで人間に押し付けてきます。
私はキリスト教の聖書を最初から読もうとしたときに、旧約聖書の「レビ記」でギブアップしました。

レビ記にはとにかく細かい規定が羅列されています。
「神がここまで細かく決める必要ある?」が最初に読んだときの感想です

しかし敬虔なクリスチャンはそうは取りません。
律法は家庭教師や養育係のようなもので、「あれをしなさい」とか「これをしてはいけません」と事細かに人間に教えるものです。
なんでそこまで細かいのかと言えば、やはり「人間を愛しているから」となります。

キリスト教の神は、「人間に必要なもの」を与えてくれる存在です。
「人間が欲しいもの」ではありません。

人間は『自分のことは自分が一番解っている、だから自分が必要なものも自分で解る』と思いがちですが、全知全能の神からすれば、人間など「赤子」も同然。

もし幼児が『今日の晩ご飯はチョコレートがいい!』とか『ケーキがいい!』とか言えば、親はどうするでしょう?
幼児の言う通りに「チョコレート」や「ケーキ」を与える親は少ないでしょうね。
『お肉も野菜も食べなさい!』と言って怒る親が大半だと思います。

幼児が欲するがままに何でも与えることが「親の愛」ではないということですね。
キリスト教(ユダヤ教)の律法も同じような理解です。


仏教でも阿弥陀如来など「大乗の仏」は、「四苦八苦」や「煩悩」に翻弄される人間を哀れみ、「極楽往生(浄土に生まれ変わる)」という慈悲を与えます。

これは自明のことと信じられています。
なぜなら「仏自身がそう願っている」と考えているからです。

「神の愛」や「仏の慈悲」は、大抵は人間に見えません。(奇跡でも起こらない限り)
それでも信じている人は、全世界にたくさんいます。

これだけいれば、『人間は「神の愛」や「仏の慈悲」など「目に見えないもの」を信じることができるか?』という命題には、「できる」と回答して良いと思います。


では『「何によって」信じるのか?』という命題はどうでしょう?
【1.】でサン=テグジュペリが言ってるように「心の目」で見ているから?
それもあるでしょうけど、やはり「教団(教会)」があり「宗教施設」があり「宗教行事(儀式)」が行われているからだと考えています。

【2.】で登場したアメリカ人妻は、おそらくはキリスト教徒で「神の愛」を自明のことと信じているでしょう。
でも「夫の愛」は信じることができなかった。
両方とも「目に見えないもの」なのに、なぜ片方は信じ、片方は信じられなかったのか?

彼女は幼い頃から教会に通い、先輩信者と交流し、クリスマスやイースターなどの儀式に参加していたことでしょう。
これらの体験の中で、「神の愛」を信じられるようになったのだと思います。

そして彼女が「夫の愛」を信じるためには、「毎朝『I Love You』と言って、行ってきますのキスをする」儀式が必要でした。
ちょうど彼女の両親がしていたように・・・。

ほんの少しの「すれ違い」が明暗を分けてしまいました。
本当に「文化の違い」を乗り越えるのは難しいものですね・・・。

【4.結論 人間は目に見えないものを信じることが苦手?】

日本の宗教法人法によれば、「宗教団体」とは「教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする団体」のことです。

文化庁HPより

この宗教団体の内で、都道府県知事もしくは文部科学大臣の認証を経て法人格を取得した団体が「宗教法人」となります。

やはり宗教には「教義をひろめ、儀式を行い、信者を教化育成する」ことが必要なようです。
そのためには「施設(教会や神社仏閣)と団体(教団)」が必要なんでしょうね。

なぜ必要かと言えば、「肝心なことは目に見えない」からであり「目に見えないものを信じるのは難しい」からだと考えています。

肝心なことを「心の目」で見るためには、他者との「つながり」が大事になってきます。
儀式行事に参加し、目的を同じくする人たちと「つながり」を持つ。

また行事だけでなく、無駄なことでも良いから「一緒の時間を共有」する
そうすることで「絆」が生まれ、肝心なことを心の目で見られるようになる。
サン=テグジュペリは、「星の王子さま」でそういうことを言いたかったようです。

そしてキリスト教や仏教でも、そのような「つながり(交わり、縁)」を大切にしています。
それはおそらく他宗教でも同じだと思います。

そういう経験を重ねることで、本当に『そのうちキミにも 見えてくるよ』になるんでしょうね。

【5.おまけ 「さあ証明しよう!」】

最後に一曲

アニメ「理系が恋に落ちたので証明してみた。」ED
「ナナヲアカリ feat.Sou」
「チューリングラブ」

『さあ証明しよう!間違いのないように』
『この感情全部全部 正解があるなら 推測を超えて!』

理系の男子と女子が、自分たちの「恋愛感情」を証明しようとジタバタする、とても可愛い曲です。

「恋」も「愛」も目に見えないので、言葉や数式で表すことができません。
でも「好きな人と一緒にいるときの胸の高鳴り(ぼくらのBPM)」は本物です。

彼らはその「確信」に突き動かされ、証明を試みます。
その「証明しよう」とする行為自体が、「恋」や「愛」なんでしょうね。