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【三国志・考】董卓はいかにして朝廷を牛耳ったのか

 189年、宦官と亡き霊帝の外戚とその部下たちが乱を起こす中、宦官二人に都・洛陽の郊外へと連れ出された幼い皇帝・劉弁(諡・少帝)と陳留王・劉協(のちの献帝)

 後漢書・献帝紀によれば郊外で宦官らを討ち、二人を保護したのは盧植らが率いる軍だったとされている。なお後漢書の盧植伝に上記についての記述は見られない。正史・董卓伝では盧植の実行したことがそのまま董卓にすり替わっており、どちらが真実かはわからない。董卓が都に帰還途中の皇帝らを出迎えたというのはハッキリと記述されている。どちらにしても董卓がこの変事を機に皇帝の威光を利用したことだけは動かざる事実である。

西涼の董卓

 董卓は黄巾の乱の最中に投獄された盧植の軍勢を引き継ぎ、討伐の指揮官を務めたものの反乱軍に敗れて北西に左遷された人物である。若かりしころは「おとこだてを気取り、人並み外れた腕力を持っていた」とあるので、見た目で人を威嚇するような風貌であったと想像できる。董卓の見た目というと、だらしなく太り、もじゃもじゃのヒゲを蓄えた清潔感のかけらもない憎たらしい人相のおっさんという印象だが、恐らく我々が思い描く姿を軽く上回る恐ろしいオーラを発していたと思われる。

 董卓が漢王朝に仕えはじめたのは霊帝の前任・桓帝のころで武芸に秀でていたことが評価されてのことである。そして董卓は匈奴なる異民族討伐で功績を挙げた。このときの恩賞はすべて部下に分け与えたという意外な逸話がある。また涼州の反乱鎮圧にあたった際には、敵に囲まれた上に食料の欠乏という危機に陥るも、川を堰き止めて水位を上げる計略を用いて敵軍の追撃を防ぎ、軍に損害を出さなかったという智謀も見せた。ほかにも百戦以上も羌族の討伐を行なったとされ、このあたり漢王朝を牛耳るだけの力を董卓が持っていたことが垣間見える。彼はせせこましい小悪党ではなく天下を恐怖で支配した大悪党なのだ。

董卓の思惑

 董卓の軍に出迎えられた皇帝と陳留王だが、皇帝・劉弁は現れたその軍勢を前に怖れて泣き出したというので、董卓自身も率いた軍もかなりのヤバい雰囲気を放っていたのだろう。そんな劉弁とは対照的に陳留王・劉協は董卓に対して事の経緯を話し、その堂々たる立ち居振る舞いに董卓も驚いたようだ。そして董卓はこのときに暗愚な劉弁を廃帝し、聡明な劉協を帝位に即けることを考えたようである。

 ここで疑問となることがある。漢王朝を自身の意のままとするには皇帝は暗愚なほうが傀儡とするのに都合がよいはずだ。なぜ董卓は聡明な劉協を皇帝にしようとしたのか?

 それは血筋だ。勘違いしてならないのは劉弁が屠殺業を営む庶民の娘であった何皇太后の血筋であるからではない。劉協の生母が良家出身であったからでもない。ポイントは霊帝の生母である董太后だ。

 劉協の生母・王美人は男児を産んだことで何皇太后(当時は皇后)の怒りを買い、毒殺された。その後に劉協を養育したのが董太后。彼女は当然、劉協に帝位を継かせたいとの考えを持っていた。この宮中の変事が起きた時期にはすでに逝去していたが、董卓は自身と同姓の董太后の遺志を大義として利用しようと考えたようである。

董卓の軍事力

 当初、董卓が都へ率いてきた兵は3,000ほどであったとされる。黄巾討伐で数万の官軍が動いたことを考えれば大軍勢とはいえない兵数だ。これでは何進が宦官らを脅すために各地から呼び寄せた他の諸侯たちにナメられる。そう感じた董卓は数日ごとに夜になると城門から兵を出し、翌日に陣太鼓を叩かせ、董卓の軍が新たに到着したことをアピールしながら入城させた。なんという子どもだましかと思うが、このことで他の諸侯は董卓の軍勢が大軍であると思い込み、董卓の軍を恐れるようになっていった。

 何進は宦官に殺害され、宦官も袁紹らに誅殺された。朝廷としては呼び寄せた諸侯も軍勢も都にとどまらせる理由がない。皇帝・劉弁は軍を撤去するよう諸侯たちに詔を発した。当然の流れである。

 しかし董卓は応じなかった。その理由はこうだ。
「変事が起きたばかりで皇帝が拉致されるような事態が起きたにも関わらず、軍を撤退させられるわけがない」
 これはのこれでもっともな理由である。皇帝を無事に保護したことによって董卓が高い官位を授かったという記述はないが、このとき漢王朝における発言力と影響力は強くなっていたことだろう。

 董卓はさらにこの状況を利用する。宮中で暗殺された大将軍の何進や、その暗殺に関与したとして殺害された何進の弟である何苗の将兵たちが行き場を失い、すべて董卓の軍門に入ってきた。さらに執金吾という地位にあった丁原をその養子である呂布をたぶらかして殺害し、その軍を吸収して漢王朝の軍事権を握った。強大な軍事力を持つ彼に逆らえる者はいない。

 そして董卓は朝廷を牛耳り、暴虐の限りを尽くすまでに増長していく。

三国志演義と正史の相違点

 三国志演義では、宦官に拉致された劉弁と劉協を保護したのは盧植でなく王允や袁紹となっている点、盧植は変事が起きた宮中から何皇后を救出する役目となっている。

 演義では董卓が提案した劉弁の廃帝、劉協の擁立に反対したことで丁原は殺害されるが、正史では董卓は丁原の軍勢を吸収するために丁原の配下だった呂布と共謀し殺害されている。

 おおまかな相違点はそのあたりであろうか。
 次回は都と宮中を地獄とした董卓の暴虐について綴ります。
 ばーい、せんきゅ。

 

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