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なぜ「私たち」は戦争反対を訴えなければいけないのか② 「形式」としての自由と平和

前回の記事で述べた、戦争反対を訴えることに躊躇してしまう人間へ向けられたよくある批判に対する批判への、再批判を述べる。現時点で私が述べることの出来る再批判は、二つある。一つは、「平和」や「自由」といった状態は、それ自体で何か肯定されるべき内容なのではなく、それらの状態はあくまで社会の「形式」として肯定され得ると言う意見だ。二つ目は、ニーチェ哲学を援用する形になるが、「平和」や「自由」は、ニヒリズムの徹底化という点で肯定され得るという意見だ。

まず一つ目の意見を詳しく説明する。戦争が全面的に肯定され、更に実施され、表現の自由が制限され、人々が熟議をする暇もその機会も大幅に奪われている社会が正当化されるとする。全世界のあらゆる場面で「万人の万人に対する闘争」が精神的な領域だけではなく物理的・身体的な領域でも達成された、まさに血みどろの世界を想定してほしい。当然だがこの世界ではもはや意見の表明や交換が存在する余地は無い。よって、「何が肯定され、何が否定されるべきか」、「何が高貴で、何が奴隷的であるか」といった問いが人々の間で提起されることは期待できない。

このことから次のことが分かる。このような社会を生じさせた最初の思想である、「表現の自由や熟議には何の価値もなく、直接的な闘争こそ肯定されるべきである」という命題が真理として確定され、あるいは少なくとも大多数の他人に承認されるためには、そもそも表現の自由や熟議がその前提条件として存在しなければいけない。一旦その命題を受け入れた後にあらゆる表現の自由や熟議を全否定する活動に乗り出すにしても、そこに至るまでは必ず、たとえ部分的にせよ、熟議や議論が存在しなければいけないことは確実である。さらに人は、「上の命題は人類が辿り着いた真理である」と断言するにせよ、その真理に辿りつくために人類はここまでの歴史的な過程を終えなければいけなかったことも認めざるを得ないだろう。つまり、その真理でさえも表現の自由や熟議によって時間をかけて発見されたものであることを彼らも決して否定できないのだ。

となると、このこともまた否定することはできない。「表現の自由や熟議というものには何の価値もなく、直接的な闘争こそ肯定されるべきである」という命題が現時点で達成された真理であるにしても、その真理が今後否定される可能性を0にすることは不可能であり(というのも、「表現の自由や熟議は重要であり、直接的な闘争は避けるべきである」という思想もかつての典型的な「真理」であったのだから)、また仮にそれが真理であるにせよ、「直接的な闘争は確かに肯定されるべきものだが、そうした闘争を通じて達成されるべき『何か』は実は他の手段によってより根本的に達成されるのであり、戦争や紛争ですらその手段に比べれば生ぬるく、牧歌的であり、直接的な闘争として未だに不十分である」といった新たな思想がより肯定される可能性もやはり0ではない。その場合、戦争や紛争以上により直接的な手段、より実りの多い闘争の形があるにも関わらず、人々は戦争や紛争といった形での暴力に日々明け暮れるばかりで、表現の自由や熟議を介して、自分達の行動がいかに「不十分」であるかを理解する機会が無いと見なされうるだろう。極めて高潔であると民主主義社会で見做されるような徳論にしても、あるいはファシズムやナチズムすれすれの、いやそれらよりも更に「非人道的」とも言えるような思想にしても、それらが存在するためには、それらの思想を伝え、なぜそれらが正しいのかを他者に説得させるために意見の自由や表現が必要不可欠なのだ。お分かりのように、道徳的な観点からではなく、事実としてそうであるという点がここでは重要だ。

よってこう言えるのではないか。表現の自由や熟議、更にそれらを可能にするある程度の社会秩序の安定は、確かにそうしたもの自体が端的に肯定されるべき根拠や理由を決して持たないであろう。しかし、表現の自由や熟議には何の価値もないではないのか、あるいは、それはむしろ否定的なものではないのか、ニヒリズムではないのか、といった批判が存在するためにも、表現の自由や熟議が、それらの批判を可能にするために存在しなければいけないのだ。表現の自由や熟議は目的としては空疎で何の絶対的な根拠づけを持たない価値観だが、表現の自由や熟議自体を批判・否定するためには存在しなければいけない手段なのだ。表現の自由や熟議は、内容としては存在価値が無いかもしれないが(もちろんあるかもしれないが)、形式としては絶対的な価値(それを疑い、否定するためにも必要であるという意味において)を持つと言い換えてもいいだろう。

よって、「平和」や「自由」というものは、社会の「形式」として、存在意義を確保することができる。戦争は正しいか、悪であるかという問題はたとえ社会の大多数が後者に賛成するとしても、決して最終的に解決されることはないし、解決されるべきでもないだろう。私たちは「戦争は正しい」という価値観を撲滅するべきではない。しかしだからこそ、形式としての「平和」と「自由」は確保されなければいけない。これが私が、「『私たち』は戦争に反対しなければいけない」と考える一つ目の理由である。二つ目の理由では、「形式」としてだけではなく、「内容」においても、「私たち」が戦争に反対するべき理由を挙げよう。

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