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最近のこと

随分久しぶりのnoteになってしまった。
ことしは3月から5月までの予定が詰まっていたので、年が明けてから2月末までは制作や打ち合わせに追われていた。そのためnoteは時間に余裕ができたときに書こうと思い、小さな下書きをいくつか用意していた。

3月になり、多くの美術作家同様、5月までのすべての予定がなくなった。

こうなると準備していた文章もお蔵入りとなる。
美術の世界は美術館を皮切りに、百貨店やギャラリーが次々に休業となった。そんな中でこれまでの作家活動を中心に語ることの空虚さたるや、クリストフが真冬に氷を売りあるくようなものだ。淡々と文章を書ける人はすごすぎる。

私の場合は制作も同じだった。
突如発表が途絶え先行きが不透明な中、コロナ禍以前と同じ意識で仕事をしている作家は多くないだろう。
345月は明らかに制作時間が減った。映画を見たり本を読んだり、作家仲間とオンラインアート談義やアトリエからの中継配信など、これまでとは少し違う時間を過ごした。

似たようなことが9年前にもあった。
当時と一番違う点は、それが世界中で起こっているということだ。今はどこにも逃げ場がない。

私の周りの作家はみな、結構タフだ。
ぶつぶつ不満を言いながらもなんだかんだとサバイバルしている人が多い気がする。私自身もそのうちの一人だ。

淡々と仕事をこなす作家はこれまでと生活にあまり変化なく制作を続けているだろう。社会情勢をダイレクトに取り込む作家は、新しい自分の表現を見つけるだろう。
ただ、美術の世界全体については、今後どのように変化していくのか、注目が集まっているのは間違いない。

世の中には今日を生きる1万円が必要な人もいれば、今月を生きる100万円が必要な人もいる。
一人暮らしの大変さと、家族を抱える大変さはそれぞれ違う。
会社員とフリーランスも同様だ。休みたくても休めない人もいれば、休業に追い込まれて苦しむ人もいる。
年齢、家族構成、病気や障害、一定のパターンはあっても抱える問題は千差万別だろう。

それぞれ大変さが違うから、コロナ禍への意識も違う。

一方で、同居家族に子供や老人がいてもライフスタイルを全く変えない人もいれば、「そこまで気にする?」っていうほど細心の注意を払っている若い単身者もいる。
不安や恐怖心それ自体に立場や環境はあまり関係なく、個人の性質によるものだと痛感する。

多くの日本人にとっては、美術館よりオリンピック、ギャラリーよりディズニーランドなのは想像に難しくない。
美術館やギャラリーが閉まっていることよりも、オリンピックが延期されたことにダメージを受ける人の方が、人口比で言えば多いのかもしれない。

これは、何を体験するかによってセロトニンやドーパミンが出やすいかの違いであって、優劣の問題ではないだろう。図書館や美術館でが必要不可欠な人間もいれば、レストランや居酒屋、パチンコやカラオケが必要不可欠な人間もいるのだ。

全ての職業や娯楽というのは、世の中にとって必要かだけではなく、その人にとって必要かどうかだ。誰かにとって必要なものを批判するということは、その人の人生を否定することになる。

私にも破滅願望や希死念慮がないわけではないけれど、嬉しいことがあれば喜ぶし、餃子とカレーはいつ食べても美味しい。

そしていつか、幸せな人生だったなと思いながら死にたいと思っている。

そのためにはまず、ひとの人生を否定することだけはやめようと、あらためて心に誓った3か月だった。

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