見出し画像

彼岸すぎごろ

越智さんの子供が生死の境をさまよっている。
すぐ自宅前の、交通量の少ない通りだったが、越智さんがちょっと目を離したすきに子供は道路に飛び出していた。そこで車に引かれた。

当時の状況として、越智さんがものすごい衝撃音にふりかえると、子供の小さなからだが空中をふわりとただよい、地面にたたきつけられる光景が目の前で、あたかも劇場のようにくりひろげられた。あまりのことに、しばらくは茫然として動けず、何が起こっているかも理解できなかった。

子供は緊急手術を受けた。頭を強く打ち、脳にまで損傷があるようで、正直生存の可能性は高くなかった。

手術が終わった病室、越智さんは子供のそばで必死に回復を祈っていた。もうどうしようもないのか。いくら呼び掛けても、手を握っても、子供は目をさまさなかった。

「その子、助からないのか」
声をかけたのは隣のベッドで寝ている男である。彼は傷心の越智さんを気遣うふうでもなく、ぶっきらぼうにそういった。
「かわいそうだな、そんなに小さいのに」
越智さんにはそれに返事をする余裕もなかった。
「よかったら命をあげようか?」
「え?」
「どうせ家族も友人もいない孤独の人生だ。俺が死んでもだれも悲しむことはない。それなら、おれなんかよりその子が生きた方がいいだろ」
「何をいって…」
「うそだと思うか?たしかに信じられない話かもしれない。ただ、お前も医者も、もう何もできることはないんだろう?ただ子供のかわいそうな死を待つだけだ。なら藁にもすがるような気持でも、何かやったほうがいいんじゃないのか?」
男は天井をみつめながら、最後までぶっきらぼうに、そう言い放った。

越智さんは男の話を聞いて、とある霊山に向かった。
この霊場には幼くして亡くなった子供が多数供養されているという。
あたりには高く積まれた石の墓標がところどころ積まれている。
地獄のように、硫黄の煙と腐敗臭がたちこめ、賽銭の硬貨はさびて黒ずんでいた。

お供え物は子供用のおもちゃやお菓子、衣服などが多い。ここにはたくさんの、最期を遂げた子供たちが安らかに眠っていた。

病室の男から聞いた話によると、そこは地獄のように、殺風景な石の墓標と硫黄のけむりが立ち込める光景が永遠とつづくが、そこを抜けると、とてもきれいな湖があるという。水は水晶のようにすきとおり、湖面は宝石のような輝きをはなっている。その湖の先にひとりの老婆がいて、その人が命の交換をうけおってくれるという。

いうまでもなく、越智さんはこんな話を、はじめから本気にしてなかった。普通に考えれば当然だろうが、ただ、じっとしてられないというか、子供のために、ほんの少しの可能性があるのなら、何かをしたい気持ちもたしかにあった。一方で半ばあきらめの気持ちもあった。もし子供の運命がすでに決まっているのなら、ここで安らかな眠りにつけば、同じ境遇の友達が、天国でたくさんつくれるのではないか、そんなことも正直なところ思っていた。

湖の対岸に老婆らしい姿はあるが、橋らしいものはなかった。幸い湖の底ははっきりみえるぐらい、水深はそんなにないようなので、歩いて渡ることは可能なようである。越智さんは仕方ないので、そのまま湖に足を踏み入れた。

湖面はとても穏やかで、鏡のように越智さんの姿が映し出されている。白い砂浜にかこまれあたりは、反射でぼんやりとした光につつまれている。まるで天国のような、幻想的な風景だった。越智さんは数分ほど歩いて対岸までわたりきった。

目の前の老婆に声をかけるが、返事はない。
人影だと思ったものは、ただの背丈程度まで積まれた石だった。ところどころ硫黄で炭化していて、その足元にさされた風車のまわる音だけが、むなしくからからと響くのみだった。ほかには本当に、何もなかった。

越智さんはそのあと、職員に聞いてみたが、そんな老婆の存在も、命の交換も、まったく聞いたことがないとのことだった。
「湖なんですけど、見た目はとてもきれいなんですけど、近づかないで下さないね。あそこは…」
だまされた怒りと失望のせいで、越智さんは職員の話をはんぶんぐらい、聞いてなかった。ぶつぶつと不満を口にしながら、急いで子供の病室まで帰ろうと思った。

その後、子供は奇跡的な回復を遂げた。まわりには医者や家族たちが、奇跡の回復を喜んでいた。
「よかったね、奇跡がおきたよ。きっとお父さんが、命をくれたんだね」
医者は子供にそういった。
となりの、うそつき男の症状も回復したそうである。孤独といっておきながら、恋人らしい女性が涙を流して喜んでいた。

子供が意識をとりもどしたのは、越智さんが恐山にでみつかってから数日後のことだった。

湖はとてもきれいだったが、硫黄の毒性が流れ込んでいて、植物もほとんど育たない場所だった。人体にも有害なので、立ち入り禁止区域になっていた。

男のいうとおり、命の交換は、たしかにおこなわれた、ということだろうか。
越智さんはきれいな湖の底で、子供たちと一緒に今も眠っているのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?