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今ここにあなたがいてくれることのすべて

子どもが眠った後の台所はやけにしんとして、引っ越してきた日の夜と変わらない静けさがあった。僕は雨の痕が残ったベランダを見つめている。もう日はとっぷり暮れて、なんだか世界中が真夜中みたいな気持ちになっていた。

僕はうちの奥さんと小さな喧嘩をした。どっちが悪いとか、もういい加減にしてよとかそういう決まり文句が通用するのじゃなくて、それはどちらかというと電池が切れた秤みたいな、ただそれなりに重いだけの塊だった。

ピンと張りつめたあなたの背中が「今は話しかけないで」って打ち明ける。それでも何も言わないよりはましだろうと、僕はまたひとつ言ってはいけないことを積みあげてもう笑うしかない。僕の言葉はいつだってうまくいかない。思いどおりにならないのなら、いっそ何もかも忘れてただ微笑んでいたい。背中を向けた奥さんを見つめながら、僕は平衡感覚を失った悲しいスポーツ選手みたいに笑うしかなかった。

それでね——

だから……

どこにも繋がらない接続詞を両手にぶら下げて、僕はとんでもない場所に来てしまっていた。こんな気持ちになる場所が僕とあなたとの間に潜んでいたなんて、かみさまはいったい何を考えているんだろう。

今夜、本当にあなたをすっかり好きになって何もかも手放して笑い合えたなら。それは幸せと呼べるものへの入口になるのかもしれなかった。わかって欲しいとは言わない。わかっているよとも言えない。それでも今ここにあなたがいてくれることのすべてを言葉にして、あなたの胸の中にそっと運び入れたいんだ。

背中を向けたあなたがいる台所で、僕はあなたと初めて出会った日の午後を思い出している。

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