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それは私ではいけませんか?

用があって駅を使う。電車を利用する。大勢の人が一様にスマホに向かっている風景はもう見慣れた。時々そうでなく、本を読んでいる人がいるとちょっと感心したりするくらいだ。

いつだか、電車が止まってしまったことがあった。私がまだ車椅子を利用している頃だ。車椅子は降りる予定の駅に乗車の号数と出口の位置を予め知らされている。その電車はしばらく止まってから走り出したが、アナウンスは次の駅で停止しての乗り換えを促している。

どうしたらいいんだろう?内心焦った。しかし、車内はもっと焦っている人々でなんだか落ち着かない。ほとんど全ての人が行き先か家族かに連絡を取っているのだ。すごい勢いでメッセージのやり取りをしている人、電話で話す人、話の内容は大体似たようなものであるのは想像できる。

一人の乗客が多い通勤時間帯だったので会話はなく、一人でどうするか調べて、決めて、そのように行動する。そしてそれを待っている人に知らせているのだろう。みんな不安気な表情だ。次の駅に停まるとどっと乗車口から流れ出る人の波。車椅子だった私は傍観するしかできない。

また違う時、きれいな花火が上がった時だったかも知れないし、道路脇で何かを観戦していた時だったかも知れない。つまり群衆の中にいて、みんながその様子をスマホで知人、友人、家族に伝えている時。そのどちらの時も、ふっと私は「その相手は私ではいけませんか」と思ったりする。

今、ここにいますよ、あなたのいる場所で横にいて、あなたと同じものを見ていますよ、多分気持ちも一緒かも知れません。でも、みんなは自分が選んだ大切な誰かとそれを分かち合いたい。もちろん、私にも友人も家族もいて、同じ気持ちである。

けれど、今、ここに共にいて、目があったら笑い合いたいのにな、と痛切に思った。それは少し悲しい、なんだか自分が忘れものになってしまったような気分。いや、これ、イタリアとかラテン系の国だったら車内で情報交換が飛び交うだろうにな。

スマホのおかげで、またはネットの発達のおかげで私たちは即座に繋がりあえる。その反面、目の前にいる存在ももしかしたら幸せや知恵を分けあったりできる、ということを忘れてしまうのかも知れない。この国の私たち、新しい繋がりを作る力は弱まっているのかもね。

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