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Hondaフリード君の犠牲

交通事故を起こしました。ナビに導かれて細い道に入り込み、横転という派手なことになった。
相手のある事故でなく自分も無傷で(ご心配なく)、よそのお宅の庭木が少し損傷した程度の事故だが、車は結局廃車になってしまった。

その晩も翌晩も、夜中に後悔のフラッシュバックが起きて数度目が覚める。苦しかった。ようやく少し気持ちが落ち着き始めた今朝、連日の忙しさでこのところ遠ざかっていた瞑想をしてみた。

いつもの自分を取り戻すため、と思ったし、廃車になってしまった車が可哀想になって泣けてきて、これはきっと何か学ぶものがありそうだという気もした。

リリース&リチャージというタイトルの自宅学習用ヘミシンクを使った。聴き始めてすぐに気づいたのは、事故の後、自分の口から出たことばだった。あの晩、倒れた車の目前のお宅のご夫婦も、駆けつけてくれた友達も、息子も一様に「怪我がなくてよかった!」と言ってくれた。

それに対して私が返したのは「怪我くらいしなくちゃ、ダメなんです」とか「車より私が怪我した方がずっと良かった」ということばだったのだ。それはその場で否定されたが、私は本気でそう思っていた。

車は私だけでなく、仕事の搬入出にも孫たちの保育園の送り迎えにも日々使われる。娘一家の足になっている大切な機能だ。それを思ったから、私は自分が無傷なのが済まないような申し訳ないような気がしたわけ。

それは中古で買った11年前の年式のもので80万円位だった。はて、自分は?とその時考えた。で、私は「せいぜい15万円くらいだよね」。今になって冷静に考えると、それは私が自分につけた値段に他ならない。そして、それはもちろん家族にも友人にもことごとく否定された。

普段、ハッピーなつもりでいる私の自己肯定感の低さ、この隠れたビリーフ=信念はいったいいつから始まったのだろう。瞑想に入るとすぐにこれを引っ剥がすことになった。なかなか手強い。でも、体を張って(と車を例えたら変だろうか)私に何かを伝えようとしたHondaフリード君。

これに気づくための事故だったのかも知れないぞ、と思ってなんとか引っ剥がす。この信念を手放した後、次には、それによって形作られた感情を手放すようにアナウンスは導く。

この否定感の周囲をぐるりと囲んでいた感情のヴィジュアルは、まるで水分を含んだ干し鱈のように白茶けてシワシワしていた。絵に描けそうだ。おまけにひどく塩辛くて苦い。嫌悪感がいっぱいになる。

そのくせ、いざとなると、それを手放すことが難しい。あまりに長く馴染んだせいか、それ自体が私自身のように思えた。古びた毛布みたいだ。これを手放したら、私は私でなくなっちゃう!空っぽになっちゃうよ!そういう新しい恐怖に襲われる。

しかし、やっとのことでそれを剥がし取って捨てると、言いようのない安らかな気持ちが全身を覆ってしばらくじっとしていた。

後に残ったのは、犠牲になってしまったシルバーグレイのフリード君への感謝。隣の町にまだ置いてあるという彼の中に、赤ちゃん用の絵本が二冊置きっぱなしになっている。でも、取りに行って傷だらけの姿を見るのが怖い。

ああ、孫のいる身となった今も、まだまだ何かが起こる。それは、自分の中に自分の生き方を制限しているものがあるということなのだろうか。そして、まだ進化は続くということしら。

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