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娘へ。母は自分を大切にしようと思います

2019年11月末、はじめての子となる娘を出産した。

出産に関してはすったもんあったけれど(想像と違ってパニックに陥った出産エピソードはインスタで絵日記にしているので、よかったら→https://www.instagram.com/kinacopowpowder/)、あれから半年。

娘はコロコロ寝返りし、バブバブ言うようになり、どうやら順調に成長してくれている。
私自身も突如目の前に降り立った未知の生物、もとい天使たる娘の言葉なき要求に試行錯誤しつつ、着実に親になっていっているとは思う。

それと同時に、「どうやって親にならずにいられるか」にも必死だ。

いや、むしろこっちの方が難しくて、苦悩の日々である。しょっちゅう自己嫌悪に陥ったり、悲しくなったり、10代の頃のようなメンヘラっぷりをかましている。

”親の役割を務めつつ、親にならずにいる”

矛盾しているようだけれど、娘との関係をいいものにしていく上で大切なことだと、私は信じているのだ。

あらためてその気持ちを強くするためにも、ここに書き記しておきたい。

■親という肩書きの引力

私は娘を産み、親という立場になったけれど、当然のことながらそれまでの私は親でもなんでもなかった。

「さとうゆきな」という個人で、人生の軸は常に”自分”だ。

すべてが思い通りに行くわけではないけれど、大人になるにつれ選択と責任を取れるようになり、周辺を”好き”で埋められるようになってきた。私は私の人生に、それなりに満足していたように思う。

だけど娘を腹に宿したその日から、「私の人生は私のものである」という感覚は、大きく揺らいでしまったのだ

子どもを育てるというのは、基本的に日々の軸を子どもに置くとことだ。相手は自力でほぼ何もできない、不完全たる生き物。優先しないわけにはいかない。

かと言って、そのこと自体を放棄したいわけでは、決してない(もちろん一人で勝手にしていい時間があったらすごーく嬉しいけども)。

実際やってみて思うのは、子育ては人間の原点を紐解いていくようで、おもしろい。

ほぼ真っさらな状態から一歩ずつ成長する姿を間近で観察できるのは、最高に良質なドキュメンタリー番組のようなエンタメ性がある。”おもちゃを掴む”という些細なことでさえ、モノとの距離感や自分の体の動かし方を学習した結果なんだと思うと、毎日はオドロキの連続だ。

すごいなあ、この子、生きてるんだなあ。
すごいなあ、私、この子を産んで、育ててるんだなあ。

大それたことをやってのけている感がふと湧き上がる。
幸せだと思う。

一方で、その感情にあぐらをかいてしまいそうな自分が、ひどく怖い。

目の前の娘が尊いからこそ、「それさえ守れれば、もういいや」と、親の肩書きに甘え、自分が主人公であるはずの人生から目を背けてしまいそうになるのだ。

■すべてを子に捧げることが善なのか

この考えに至ったのは、自分の親の影響が大きいと思う。

うちは決して裕福ではない家庭環境だったけれど、きょうだい3人を育て上げ、私に関しては医大・薬学部に次いで高学費と言われる私立の美大にも行かせてくれた。両親ともバイトまでして。

本当に、心から感謝している。しているけれど…どこか蔑みのような感情も長いこと抱いていた。

「もっと好きなように生きればいいのに」というのがあったのだと思う。
やりたくもない仕事や逼迫した家計簿に支配され、いつも心に余裕がないように見えた。それはもちろん私や弟のためであり、こんな風に批判するなんて、ひどい話なのだけれど。

「誰のためだと思ってんのよ」
そう言ってイライラをぶつけられるたび、自分のせいだという負い目を感じた。反面、「勝手に産んだくせに何それ?」「なんで文句ばかりで、どうにかしようとしないんだろう」という怒りもあった。

子どものために自分を犠牲にしているという態度に、傷ついたのだ。

もしも自分に子どもができたならば、私は、もっと好き勝手に生きたい。

私の人生は、私のもの。
あなたの人生は、あなたのもの。

大切にしたいからこそ、いち個人として向き合って、互いの人生をしっかり分離させたいと考えるようになっていた。

■私の好きなものを忘れないために

”親でない私”を、これからも大切にしたい。そのために、どうしたらいいのか?

ひとつはやっぱり、仕事なんだと思う。
それだけが解ではないだろうけれど、手っ取り早いのは間違いない。

家庭以外の世界を持つということが、社会的な貢献感を得るということが、いかに自分が自分であるために欠かせないかを、私自身、産休・育休という体験を通して実感している。

早く職場に復帰したい。親ではない自分の価値を、確かめたい。
その一方で、爆速で変化していく娘をもう少し一番近くで眺めていたいとも思う。

まったく、矛盾している。
どうしたいんだと、自問自答して一日中揺れているなんてこともザラだ。

しかしそうこうしている間にも、どんどん娘の存在感は増し、私の自己認知は親へと塗り替えられていく。

やばい。やばいやばい。このままじゃ、身も心もぜんぶ親になっちまうよ。

…焦る。

そんな時は、とりあえず数分だけでも、子育てと無関係なコンテンツに触れてみる。「授乳しやすいか」といった機能性ではなく「産前の自分が可愛いと思うか」といった基準で洋服をネットショッピングしてみたり。

そうすると、少しだけ心が落ち着くのだ。親ではない自分の感性が刺激されたと、確認できるから。

側から見れば遊んでいるだけかもしれない。もっともっと娘に時間を割くべきと言われるかもしれない。
でもどんな些細なことでも、自分が好きだと思うものを忘れないための行動が、とにかく今の私には必要なのだ。

いつか娘が大きくなった時、「ママはこういうのが好きだ」と熱く語りたい。
あわよくば、娘にも「ママはこういうのが好きでしょ?」と理解されたい。

だから私は、今日も愛おしい娘と過ごしながら、自分の”好き”を磨く時間を、どうにか捻出しようと必死にもがいている。

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…まあ、長々とそれっぽく書いたけれど、言いたいことは「今日もYouTubeやNetflixに夢中な母を、許してね」という、ただそれだけかもしれない。

さあて、今日は何を楽しもうか。


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