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Warに関するあれこれ2(セラシエの光と影)


ラスタにとってのセラシエ

平服のセラシエ

この曲Warの元になった国連演説をおこなったエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世(Haile Selassie I)はラスタファリ(Rastafari)を信じる人たちにとって絶対的な敬愛の対象です。

セラシエが持つ意味はラスタ個人個人で異なりますが、戦前の日本の天皇のような「現人神」だったり、全能の神(Jah)の化身だったり、再臨したイエス・キリストだったり、限りなく神に近い神の栄光を体現した唯一無二の存在だったりします。

ラスタにとってのセラシエ(イメージ)

ラスタの信仰は個人差がすごく大きいです。でもすべてのラスタがセラシエを愛し、尊敬し、こころの拠りどころとして大切にしています。彼らにとって神聖な存在です。

ソロモン王朝の末裔

そんなセラシエは、1892年にエチオピア南東部でソロモン王朝(Solomonic dynasty)直系の貴族の子として生まれました。生誕時に親から授けられた名前はLij Tafari Makonnenです。

青年時代はRas Tafariと呼ばれていました。Rasはエチオピアのゲエズ語(Ge'ez、ヨーロッパにおけるラテン語のような存在)でprince(王子)という意味です。

ソロモン王朝というのは、13世紀から1974年のクーデターまで続いたエチオピア帝国(Ethiopian Empire)の王家を指します。

(イメージ画像)

王朝を正当化するため、旧約聖書に出てくる古代イスラエルのソロモン王(King Solomon)とシバの女王(Queen of Sheba)の間にできた子メネリク1世が王家の始祖だという伝説が創り出されました。

Queen of Sheba and King Solomon

1930年に即位

ソロモン王朝のラストエンペラーになったセラシエは1930年に皇帝として即位、ハイレ・セラシエと名乗るようになりました。

ちなみにハイレ・セラシエという名前はゲエズ語でPower of Trinity(三位一体の力)を意味します。

エチオピア君主としてのセラシエは、政治的、社会的改革をおこなって近代化を推し進めた人物として一定の評価を受けています。

国家元首としてのセラシエ

ポジティブな面

1931年にエチオピア初の成文憲法を制定し、1942年にはイタリアによる占領下(1936-1941)で終止符が打たれた奴隷制度を正式に廃止しています。

ちなみにこのイタリア占領期にセラシエは亡命し、5年間イギリスで暮らしています。

エチオピアに戻ってからは、朝鮮戦争の国連軍に兵士を送ったり、アジア・アフリカ会議や非同盟諸国首脳会議に出席したり、アフリカ統一機構(Organization of African Unity)を発足させて初代議長を務めたりして、外交面でアフリカ諸国をリードし成果を上げました。

OAU議長セラシエ(前列左から3人目)

ネガティブな面

しかし国内では民主化、政治改革、経済成長に見事に失敗しています。

政党すら存在しない封建的な帝政下、国民には政治参加の道はまったくなく、基本的人権も守られていなかったと言われています。

経済も発展せず、1960年代にはひとり当たり国民総生産ベースで世界最貧国のひとつになってしまい、陸軍によるクーデター未遂事件が発生しています。

1970年代に入ると深刻な飢饉とインフレなどの影響で餓死者が増加、ストライキやデモが頻発して社会がどんどん不安定化します。

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そんな危機的な状況にもかかわらず、セラシエには効果的な対策を打ちだすことができませんでした。

革命による失脚

失政に次ぐ失政の結果、1974年にエチオピア陸軍の左派が蜂起して反乱を起こし、セラシエは首都アディスアベバの宮殿内で捕えられました。

軍に拘束されるセラシエ

クーデターによってエチオピア帝国は倒され、社会主義国家への移行を目指す軍事政権が誕生しました。

そんなわけでセラシエには光と影と言うか、功罪両面がはっきりとあります。

ラスタやラスタに共鳴する人たちはすごく美化しますが、実際にはエチオピア革命(Ethiopian Revolution)で民衆によって権力の座から引きずり下ろされた人です。

(イメージ画像)

軍による拘束下で死んだセラシエの最期は謎に包まれていていまだによくわかりません。処刑されたという説もあります。

ちなみに彼の孫ゼラ・ヤコブ・アムハ・セラシエ(Zera Yacob Amha Selassie)は現在70歳。アディスアベバに住んでいるそうです。

Zera Yacob Amha Selassie

日本とエチオピア

最後に余談を少しだけ。

実はエチオピアと日本の間にはかなり強固なつながりがあります。

セラシエは二回来日しています。一度目の1966年は日本側にとって第二次世界大戦後初の国家元首による訪問でした。ニ回目は大阪で万博が開催された1970年です。

1966年の初来日時

記録によると、政府間の関係は1919年に遡ります。エチオピア帝国の国際連盟(League of Nations)加入を実現するためにセラシエ(当時の名前はラス・タファリ・マコネン)がジュネーヴを訪れた際、国際連盟日本代表杉村陽太郎と会談したのが日本とエチオピアの最初の公式な接触だと言われています。

同じ皇帝統治の歴史を持つ大日本帝国に注目していたセラシエは1931年には外務大臣ヘルイ・ウォルデ・セラシエ(Heruy Wolde Selassie)を団長とする使節団を日本に派遣しています。

この際、使節団に随行したセラシエのいとこアラヤ・アべべ(Araya Abebe)と日本人女性の結婚がほぼ決まりかけました。

お相手は黒田広志子爵の二女黒田雅子さんという方だったそうです。

Araya Abebe&黒田雅子

この世紀の縁談はエチオピア国内の利権を狙っていたイタリアの干渉によって破談になったと言われています。

もし実現していたら・・・と想像してしまう話です。

以上、今回はセラシエの光と影、そして日本とエチオピアの知られざる関係についてでした。それじゃまた~

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