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『正欲』に気付かなかったマジョリティ

 朝井リョウさんの『正欲』を読みました。

 以前から書店で見かけることはありました。
 これまではあまり気に留めていなかったのですが、映画が公開されたとのことで購入しました。

 はじめの期待はそれほどだったのですが、読んでよかったと思いました。


正欲とは

 作品の中でメインテーマとなっているのは特殊性癖です。

 人によっては異常性癖という人もいるでしょうね。

 要はあまり一般的ではないフェティシズムのことです。

 私にもあまり大っぴらにはできない癖があります。

 パーツだけなら口内とか歯とか。

 髪が綺麗なのが好きとか笑うと消える目が好きとかは発表しやすいですが、歯とかになると途端に猟奇的に感じるのはなぜなんでしょうね。

 そういうマイノリティに主眼が当てられた小説です。

 ここでいう黒髪などは「正欲」、それ以外は「社会のバグ」のような扱いを受けている~という意味合いで「正欲」という表現をしているようです。

 どうでもいいとは思いますが、口内フェチに向けた映像作品などもあるので厳密にはマイノリティではないのかもしれません。本当にどうでもいいですね。

多様性とは

 このところ多様性を訴える風潮があります。

 この多様性という言葉が指すものがどこまでカバーできているのか。

 読後はその疑問を抱える人も多かったのではないでしょうか。

 私の周りにもいわゆるLGBTのうちのいずれかに該当する人はいますし、それ以外の人たちもいます。

 かく言う私自身はたまたま生まれた性別と自身の認識が合致しているのですが、そうでない人も割と普通にいます。

 彼ら彼女らについて、私は別にどうも思っていません。

 「普通にして」って言う人が多いのですが、正直その「普通」がよくわかりません。

 だからもうどうでもいいと思って、他の人と同じように対応することにしました。

 その中で何か嫌なことがあれば共有してくれればいい、というのは性的マイノリティに関係あろうがなかろうが同じことだと思います。

 世間で叫ばれている多様性に対する配慮は私のスタンスよりずっと崇高で優しさにあふれたもののように感じます。

 性的マイノリティを認めよう。

 でもそれって本当に正しいんですかね。

認めること

 性的マイノリティを認めよう。

 この言葉にはなんとなくひとつのニュアンスが混じっているように思います。

 性的マイノリティを 認めて あげよう

 どこか認める側に立っている人ってイメージがありませんか。

 認める側ってのはマジョリティという高台に立っている人で、見降ろしているように感じられませんか。

 それって本当に多様性を認めているのでしょうか。

 認めてはいるんでしょうけど、それって性的マイノリティの人たちが望んだことなのでしょうか。

 私の知り合いが言う「普通にして」は「認めてあげること」とは違うような……

 偶然にも私の周りではそういった人たちがいたのでこのような視点がありますが、偶然にも性的マイノリティが身近にいない人たちは知らず知らずのうちにマジョリティの高台にいるのかもしれません。

 『正欲』はそういった人たちが高台にいることを確認することができる小説かもしれません。

 もちろん、気付かない人もいるでしょうし、高台にいるのに「私は高台にはいない」と思っている人もいると思います。

 あるいは、私自身がそうなのかもしれません。

 そもそもの話、性的マイノリティって名前がもうなんか、いろいろ良くないようにも思いますけど。

予想外のこと

 狭量な視点と思考ではありますが、いわゆるLGBTは幸いだろうと思います。

 取り上げてもらっているので。
 誹りを受けることもあるでしょうが世間に認知され始めているので。

 もう5年以上前になりますが、BだかTだかの知り合いとこれについて話をした記憶があります。

 「BだかTだか」というのはどっちなのかよく覚えていないからです。
 私にとっては彼の性自認や性的指向はどうだっていいので。

 LGBTだとかって言われているけど、ロリとかペドとかズーってそこに含まれてないんだよね。
 そういう人たちの居場所って、寄る辺って。

 簡単にまとめるとこんな具合でした。

 判断能力のない未成年や物言わぬ動物たちが被害に遭うので一定の規制は敷かれて当然ではありますが、では、そのような思考・嗜好・指向を持っている人たちはどうすべきなのでしょうか。

 発散する先のない欲を抱えた人たちは、それらを抱えていつまで悶々としていればいいのでしょうか。

 誰も彼らに手を差し伸べてはくれないのでしょうか。

 『正欲』では水が形を変えることに対して性的な悦びと似た感情を覚える人たちが登場します。

 登場人物に直接浴びせられたものではありませんが「キチガイは困る」という言葉が出てきます。

 水に欲情するなんて考えもしなかったから、マジョリティにとって彼らはキチガイなのです。

 今ではそんなことをいう人は……減りはしたかもしれませんが、一定数はいるでしょうね。

 私たちの予想もできない性的な欲求というのはやはりどこかでひっそりと隠れざるを得ないのでしょう。

 そういった人たち、欲たちに出会ったとき私は果たして普通でいられるのか。

 わかりません。

 踏み込んでいいのかもよくわかりませんし、わかった気になるのも嫌だと思います。

 完全に理解した!認めよう!みたいなこともできていないし、これからもできないんだろうと思います。

 今の私が思うのはそんなところですね。

 『正欲』を読んでもあまり心の根っこ部分が変わらなかったのは、無理解なのか、諦めなのか。

 その辺りがまた少しでも見つめ直せると良いなと思います。

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