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父と母の最期の教え②023

母が逝き、すっかり元気を失っていた父に、保育園の送迎バスの仕事を勧めました。

母の介護があった為、大型車の仕事を辞め、自宅で卸小売業をしていました。

それは父の好きな仕事ではなかったのですが、不平も言わず、いつも夜中まで懸命に働いていました。

落ち込む父が、少しでも好きな運転の仕事で元気を取り戻してくれたら…との思いからの提案でした。

当時六十三歳だった父は、元気な子ども達からパワーを貰い、徐々に元気を取り戻していきました。

それから十数年もの間、いきいきと働き、ありがたい事に惜しまれながら退職しました。

送迎バスの運転手にとどまらず、先生方から頼まれては、大工仕事や草刈りをこなし、果てはお泊まり保育にも同行し、カレー作りに参加したり、プール遊びに興じたり。

とても給料に見合わないのではないかという、身内の心配をよそに、本人は実に楽しそうに!

一緒に買い物している際に、中学生になった、かつての保育園児から◯◯さーん!と声をかけられ、照れながらも笑顔で応じる父の顔は今でも忘れられません。

保育園の仕事に就けたことで、楽しく充実した晩年になったと思います。

そんな父が、コロナ禍が始まって間もなくの頃、体調を崩して入院しました。

間質性肺炎は投薬で良くなり、一度は退院できました。 

しかし、ホッとしたのも束の間、定期検診で別の病いが見つかり、あっという間に体力が落ちていきました。

春には、弟夫婦と共に花見旅行をすることができましたが、その年の夏、八十八歳の誕生日を目前に母の元へと旅立ちました。

1週間ほどは在宅介護の真似ごともさせてもらいました。

食事が喉を通らず、重湯を飲むのもやっとの父がある日、「わしゃ、早よ生まれ変わりたいわ」と弱々しく言ったことがあります。

私がわざと軽い感じで、
「生まれ変わって何になんのん?」と問うと

「ごくごくーっと思いっきりトマトジュース飲むねん」(笑)

それから3日後、救急で運ばれた父は、私と弟夫婦に背中をさすられながら、最後まで懸命に「呼吸」をしていました。

ほんのひと時、私一人になったタイミングで、
大きく息を吸い込み、満面の笑みを見せました。

「どないしたん、何が可笑しいの?」と問いかけましたが…

次に大きく吸いこんだ息が、吐かれることはありませんでした。

最期の最後、笑顔で旅立ってくれた事が、せめてもの救いとなりました。

「駆け引き無しに懸命に働くこと」
「最期まで全力で生き抜くこと」

これが、昭和の高度成長期を生きてきた父の最期の教えです。

今回も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました😊

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