うまく歩けない私は、丁寧に歩く

病気ってのは、突然やってくる。そんなのは当たり前なのである。

「あのぉ、これからお世話になりますぅ病気ですぅ。よろしくお願いしますぅ。」
なんて尋ねてきたら、そりゃお断りなのだ。奴らは土足でいきなり入り込んでくる。気付けば罹患しているもんである。

脊髄内にほんの小さな腫瘍が出来たせいで、私はうまく歩けなくなった。きっとまだまだ生きると思われる年齢で、歩くが苦痛になったのだ。24時間身体は痺れ、日々気が狂いそうだ。それでも生きるしかないのだ。

ただ歩く。それだけの行為が、本当に難しいと知ったのは、1歳以来だろうか。当時さえ歩く練習なんてのはしなかっただろう。普段何気なくしている歩くという行為は、実は難しい行為なのだ。

そんな事言っていますと、「その位なんてことないだろう?歩けるだけマシだ。歩けない人だっている」
なんて言葉を言われることがある。だから気を落とさず頑張れとの事だ。
優しさののだろう、私を勇気づけてくれているのだ。

そんなことは知っているのだ。私より不幸を感じている人なんて、いくらでもいるのだろう。
様々な理由で不幸を感じている人はいくらでもいるのだ。

だが、私の人生においては、私が一番不幸なのだ。この不幸を他人と比べてほしくないのである。
もちろん、「私はお前らより不幸だぞ!」みたいマウントを取る気はさらさらない。そんな事は意味がないと知っているのだ。

死にたくなったりもした。だが、生きているのである。一生懸命歩いているのだ。
周りが何の気なしに歩いている横で、丁寧に歩いている。少し気を抜くと挫くようなおぼつかない歩きだろう。それでも歩いている。

優しさとは、時に難しい。受け取り方がわからなくなる時もある。
伝え方も迷子になったりもする。それでも伝えるのなら、受け取りての気持ちを大事にしてみたい。

何を伝えたかより、何がどう伝わったかが大切なのだ。

ここまで読んで頂きありがとうございます。
人に優しくするのって難しいですね。受け取り方も人それぞれですから。

それでは、佐世保の隅っこからウバでした。




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