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兄の話 ~大きな夢を抱いた男の末路~

 先月、妹が誕生日を迎えた話を書いたが、兄も本日38歳になった。お祝いに(?)兄の波乱万丈な壮絶人生を振り返ってみる。

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 両親は共働きだった。小学校時代、放課後は私も兄も児童館にお世話になった。私が図書室で『ドラえもん』の漫画を全巻読破している間、兄は遊戯室でサッカーボールを蹴っていた。

 私が小6に上がると、兄は一足早く中学に入学した。サッカー観戦が趣味でありながら、何故かテニス部に入部した。毎日素振りを続けてもなかなか上達しなかった。試合は万年補欠だった。それでも諦めずに3年間やり通した。
 その結果、最後の中総体で開会式の入場行進に参加させてもらえた。吹奏楽と手拍子を聞きながら広大な競技場のトラックを仲間と共に歩いた思い出はその後も記憶に残り続けたという。

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 一方で兄の中学時代はいじめられ続けた3年間でもあった。奴らと高校で一緒になりたくない一心で、あえて隣県の私立高校を受験し合格した。少しでも通学距離を縮めようと祖母の家に移住したが、それでも毎日早起きして1時間半も電車に揺られる苦行だった。ただ人間関係はリセットされたのでいじめは一切無く、良き友達にも恵まれた。

 兄が祖母の家に住み始めたことで、私は兄と週1程度しか会わなくなった。会わない日はしょっちゅう電話した。兄はしゃべるのが大好きで、毎回長電話になった。

 高3の文化祭。兄のクラスはコント仕立ての演劇をした。おしゃべりな兄は進行役を任された。ぶっちゃけ主役より目立っていた。打ち上げのカラオケでウルフルズの『バンザイ』を全員で合唱した。おそらくこの頃が兄の人生のピークだった。

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 サッカー観戦の趣味とテニス部の経験と文化祭のしゃべりが好評だったことを踏まえ、兄はスポーツキャスターという大きすぎる夢を持ってしまった。だからこそ上京したかった。正直、学力は高くなかったが、小論文推薦という裏技で東京の大学に進学した。

 サークルは放送部を選んだ。ここで経験を積めば夢にまた一歩近づくかもしれなかった。しかし、あろうことかサークル内で中学以来のいじめが再発し、僅か1年で退部した。

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 転落人生が始まった。元々の学力の低さが災いし、3年かけても単位はあまり取れず、「最後の1年で単位を取りまくっても卒業できない」ことが判明した。その時点で親に中退を促され、渋々従った。3年間の学費が無駄になった。

 当然だが中退後すぐに帰郷した。最早スポーツキャスターどころではなくなった。夢を失った兄は絶望に打ちひしがれ、就職活動をする気も起きず親のすねを齧りながら2年が経過した。

 薬剤師の母親の伝手で介護施設に就職したが半年の試用期間で落とされた。その後、飲食店に転職するも会社が倒産し、お年寄りの自宅へ弁当を配達する仕事に再転職してからはようやく安定し今に至る。

 しかし、2年前の1月に私が帰郷した時、兄はすっかり抜け殻になっていた。しゃべるのが好きだった過去が嘘のように「借りてきた猫」だった。ショックだった。夢を失った人間はここまで落ちぶれるのかと。


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 何が言いたかったかと言うと、大きな夢を持つということは、叶わなかった時に人生が転落するかもしれない、そんな危険なリスクを伴うということである。

 兄の場合、スポーツキャスターの夢が叶わなかった時のifルートを人生設計しておくべきだったのだ。単位を落とさないのはもちろんだが、それだけではなく何かの研究に打ち込んだり、就職に役立つ資格の1つでも取っておけば潰しが効いたかもしれない。しかしそんなことは全くしなかった。競馬で単勝1枚だけ買って当てようとしていたのだ。

 幸せの絶頂にいる妹ですら、動物病院で働くという当初の夢は叶わなかった。しかし大学の獣医学部を6年間頑張ったことで保健所に勤務することが出来た。しかも公務員にもなれた。その違いだと思う。


 誕生日にも関わらず厳しいことを書いてしまったので、最後にこの言葉を贈る。


 どんなに辛くても死なずに生きてくれてありがとう。


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