ムーの助言・その1「できることから」

 そのむかし、友人の結婚式の前夜、身内だけの集まりに参列させてもらったときのこと。隣に座る友人の母親が、小学生のころのエピソードをひきあいに娘自慢を聞かせてくれた。
 どんな会話だったのかわからない。でも、うんうんと頷くその表情から、相手が深刻な悩みを打ち明けているであろうことは想像できた。そして、目を移すと、受話器を持ちながら失禁しているのに気づいたという。話の腰を折ってはいけないと、ちょっと待ってねという言葉をのみこんで、おもらししたまま友だちの声に耳を傾けている娘を見て、あー、なんてやさしい子だろう、この子には敵わないなってそのとき思ったのよ……。 
 話を聞きながらもらい泣きしてしまった。失敗談としてではなく、尊敬の念を抱いた話として私に伝えてくれた、そのやさしさに琴線が触れた。自分自身の母親を振り返らずとも、一般の日本のマザーたちがわが子のことを「人として尊敬している」などと口にしていることは稀だったので、余計に胸に響いた。尊敬されている娘である友人もだが、それ以上に、そう言いきることが出来る母親であるその人がうらやましかった。

 数年後、私が今度はそうなった。つまり、自分の子どものことを「人として尊敬」し、口外してやまない親になったということである。いざなってみると、もしかしたら私がそうであったように、他者からはうらやましがられる(もしくは鬱陶しがられる?ようにならぬように気をつけているけれど……)かもしれないが、そんな必要はない。ないというのは、そこに胡坐をかいているわけではないので、羨ましがられる筋合いはないという意味だ。事実を述べているだけだから、と言えばわかってもらえるだろうか。
 わが子とはいえ、別個の人格であるのだからして、自分のダミーではない。そんなわかりきったことを忘れてしまうほどに、本当に私が生んだ子かしら?という思いにかられることがある。いや、こんないい加減な私が親だから、上手い加減に立ち振る舞う子が育っていったのだとも言える。謙遜ではなく「みなさんのおかげです」という正直な気持ちもある。
 もちろん、成長する過程で、年がら年中、敬いの心で接してきたわけではない。小言も、他の家より多いだろう。(まあ、それは、不機嫌スイッチがすぐに入る私の問題でもあるけれど。)

 彼女、ムー(娘のことを仮にこう名付けてみる。”むすめ”のムー。)の何にそれほどひれ伏すかというと、ずばり、本質を見抜く目であり、核心を突く、その言葉である。私がなんでもスピーディにこなす(ように見える)性格であるのとは真逆に、「ゆっくり、じっくり、しっかり」考え行動する姿勢は、三つ子の魂百までとはよく言ったもので、ムーは小さい頃からそうだったし、19歳のいまも変わりない。
 鬱々、ぐちぐち、出口のない独り言のようなおしゃべりに付き合ってくれ、合間に放つひとことが秀逸で、弾丸トークの最中の私が一瞬たじろぎ、深呼吸をしたかと思うと、手を合わせて、ありがたや~と拝む真似ごとをして聴き入ってしまう。
 そんなとき私はふと思うのだ。悩み多き人にムーを貸し出す商売をしたらきっとうまくいくに違いない。

 前置きがいつにもまして長くなった。

 以前、バイトあれこれ・その1として書いたときは、その2、その3と続けて書くつもりだった。「だった」と、過去形で書いたが、中断したわけではなく、いつか書くつもりではいる。今回のタイトルもその1としているのは、1回では書ききれないからという意味だけのことであって、いま手元にその2、その3が用意されているわけではないのであしからず。

 あれはムーが卒園する直前、6歳の誕生日を過ぎてすぐのことだった。私は中年の危機のまっただなかにあり、このままずるずるとパート仕事を続けながらムーを育てるのか、悩みながら、起業セミナーに通ったり、キャリアカウンセリングを受けたりしていた。
 よし、やるしかない。一縷の望みにかけていた。借金はしたくない。思いついた自営業のアイデアは当時はまだ競合が少なく、いけそうな気でいたので兄に相談した。商売には向いていない私への信頼がいまひとつだったようで事業計画書を出すように言われ、セミナーでレクチャーを受け頑張って書いた。条件つきだったが承諾してくれた。兄の気が変わってしまわないうちにとスピーディーな性格が後押して不動産を駆け回り、よい物件を見つけた。少し予算オーバーではあったが、まず頭金はいくらぐらいまで可能でいつまでに払ってもらえるか兄にメールした。何日も返信がなかったので携帯へ電話した。つながらない。不安になる。
 折り返し電話が鳴ったのは夜10時を過ぎていた。
 「あの話なんだけど、悪いけど、無理だわ」
 絶句。えーと、いや、待ってよ。もちろん自分のやりたいことの資金をひとに頼るなんて根性入ってないと言われたらそれまでだけど、約束してくれたよね? それを聞いたから実現に向けて動いていたんだけど、わたし。
 「無理って、えっと、全額は無理でも、どれくらいなら出してもらえる? 半分くらいでも無理?」
 一銭も出せないと言われ、ぶち切れた。私にとっては人生崖っぷち、やっとの思いでどうにかスタートが切れると思っていたのに、そりゃーないよー。ならはじめから言ってよー。期待させておいてひどいよー。
 泣き叫んでも返事が変わるわけじゃない。兄とはいえ、家族がある身。立場を代えればもっともな話ではあるのだ。それでも受話器を置いたあとも嗚咽はとまらなかった。
 隣の部屋で寝ていたムーが起きてきて、大泣きする私の背中をさすって「どうしたん?」と聞いてきた。
 私はしゃくりあげた声で、事の顛末を説明した。
 ムーは35歳の年齢差を感じさせない落ち着いた声でこう言った。

 「おかーさん、できることからやっていったらええやん」

 うわぉー、そう、そうだね、そのとおり。できることからやっていったらいいんだよね。いやー、あなた本当に6歳なの?

 しかし、その有難いムーの助言も役に立たず、私はいまもってその事業へ一歩も近づいてはいない。兄が出資しなかったのはある意味正しかった。
 もっとも、こうして「書き続ける」(わずか2ヶ月だけれど)ことが、いま私に出来ることのひとつの実践だとすると、十数年の月日を経て私を突き動かしているとも言える。サンキュー、ムー!

 

 

 

 

 

 

 

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