見えない壁

 越してきたお隣さんに挨拶に行った。入居した人が向こう三軒両隣に挨拶に回ることが習わしだったのは、遥か昔のことになるのだろうか。私自身はいままでそうしてきたけれど、されたことは、この20年間、5回住まいを変えたなかで、1度しかない。されることを待っていては知り合うきっかけは作れない。上下ならいざしらず、生活音が聞こえてくるお隣さんなら、せめて顔だけでも見知っておきたい。挨拶交わせば、「おたがいさま」と持ちつ持たれつができる気がする。
 それでもいまどきのご時世。隣は何をする人ぞ、という方がうまくいくこともある。相手に鬱陶しがられたらどうしよう。週末の方がいいだろうか、いや、遅くまで寝ていたいかもしれないし、部屋着で扉を開けるのを躊躇するかもしれないから、平日の夜、あまり遅くならないうちの方がよいだろうか。学生さんか、社会人か、単身か、ご老人か、ひとによって都合のよい時間というものがある。そんなことをうだうだ考えているうちに、1日、2日と過ぎていった。時間が経つごとに腰が重くなる。
 話し声は聞こえないのできっとひとり暮らしだろう。k-popらしき曲がたまに聴こえてくるから若い女性かな。勝手に想像し、億劫になる気持ちが増す。こちらのラジオの音、うるさいと思われてやしていないかだとか、気になりだすときりがない。
 10日ほどが経過したころ、ガタガタとドアが開き、いま帰ってきたという物音がした。チャンス到来。これを逃したらまた先延ばすことになりかねないし、永遠にそのときは訪れないかもしれない。ちょうどコーヒータイムと、甘いものを用意していたところだったので、それをおすそ分けがてら紙に包んでカーディガンを羽織り、お隣さんのインターフォンを鳴らした。返事がない。居留守を使われている? 宗教の勧誘かと思われたかな? そこで私はカメラに向かって、「隣のものですけど」と優し気な人間を装った。いや、装うまでもなく、悪い人間ではないのだけれど。しばらく間があった。ドアの向こうで値踏みされているのだろうか。またしても勝手な想像が渦巻く。手にした包みのなかみの小ささにうっすら後悔の念が湧き、改めて出直した方が良さそうだと思っていると、ゆっくりと扉が開いた。
 私のたくましくない想像力を超えた、たくましい人がそこにいた。こういう人を生活力のある人っていうのだろうなー。ほれぼれとしながら武勇伝を聴き入った。初対面の、それもお隣さんの私に「個人情報開示」半端ない。しかも、そんなみみっちいこと気にして生きてやいないわいと肩で風切る姿がかっこいい。そしてなにより、職業人としての自負がみなぎっていて、ないものねだりの私にはまぶしく映る。この道一筋じゃない生き方もありだよねと自分を慰め励ますことが癖になっている昨今だけれど、この道一筋が醸し出す揺らぎない自信と仕事を通して裏打ちされた誠実さの魔力にひきつけられた。

 挨拶しなくてもいいか、と流さないでよかったー。近所付き合いなんかない方がいいよとクールにできない私にとって千客万来なのだ。
 と思いながら、立ち話がしばらく続き、そろそろおいとましようとした矢先のことである。おー、なんと、この人もかーと、がっかりする言葉が発せられ、どぎまぎした。本人は気づかない、外国人差別。

 周辺の乱開発を嘆き、「やたらと中国人が多くなって」と口にした。
 里山の静かな環境を壊されたくないなら、行政を含めた乱開発を進めた業者に文句を言えばいい。いわれるところの富裕層の中国人が投資目的で不動産を買いあさるというなら、日本人はどうなの? 制度で変えられることは多々あるのに政治に矛先が向かないのは何故? 立ち話で半生を聞き、職場環境改善のために運動してきたことに尊敬の念を抱いた私は、政治音痴なひとではないと思いこそすれ、その「中国人が」と、さも忌々しそうに非難するもの言いに呆気にとられた。
 しかも、朝鮮の氏で自己紹介したよね、さっき、わたし。中国人と朝鮮人は違うと思っている? 日本語を流暢に話すから、「日本人」とカテゴライズされている? その「日本人」は、みな「中国人」を招かざる客だと敬遠していると思っている?
 こんなこといまにはじまったことではない。
 それでも気に留めないなんて芸当は無理だ。回を重ねても上手く立ち回ることが出来ない。

 思い出しついでに書いておこう。
 10年ほど前、日本のインバウンド旅行が注目され、アジアからの訪日客が増え始めたころのこと。京都のある観光名所の休憩所で、大きな声で中国人の悪口を言っている旅行者がいた。いわく、中国人の団体客がうるさくてだの、ゴミの捨て方がなってないだの、京都の風情がだいなしで迷惑だ、だの。
 最初は我慢していたが、これでもかと尾ひれがついた罵詈雑言をまき散らされ、たまらなくなって近づいてこう言った。
 「私が日本語がわかる中国人でなくてよかったですね。日本人の皆がみな礼儀正しいわけじゃないでしょ。大きな声で不愉快な話をされて、私はあなたたちから迷惑を被っています。静かにしてもらえませんか」
 「でも本当に中国人は……」と一人がぶちぶち言い返してきたが、もう一人が目配せして、彼らはその場から離れて行った。周りの人たちの視線を感じ、私は時計を気にしながらも、威勢よく言い放った手前、否が応でもしばらくその場にとどまらざるをえなかった。

 そんなことを思い出したのは、お隣さんから「中国人が」という発言をふいに聞いたとき、あいまいな表情で応えるしかなかった自分が情けなかったからである。
 休憩所でたまたま出会ったその人たちは赤の他人であり、二度と会うことはない。ぎゃふんと言わせたからと言って気持ちよくなるわけではないけれど、不特定多数の集まる休憩所での差別発言(”マイクロアグレッション”と認知されるようになったひとつであっても)は許さないという空気を作る当事者にはなれたと思う。
 翻って、お隣さんは二度と会わない人ではない。だからと言って、職場や学校で何か共同作業をする相手とも違う。しかも、「はじめまして」のご挨拶の時間である。和やかな会話の最中に不穏な空気が流れるのもいやだ。
 しかし、こうした場合、黙って聞き流すのは「大人な」対応でいたしかたないのだろうか。それは、私自身も「中国人が多くて困る」と思っている一人に組み込まれてしまうことになりかねないというのに。少なくともお隣さんのなかでは、同調してくれる、そう思うの当り前よね? と暗黙の了解があると信じて疑わないから、なんの躊躇もなく言葉にするのだろう。できてしまうのだろう。

 壁越しの相手と壁を外して生身の姿で対面したというのに、見えない壁が私の前にさらに立ちはだかっていた。

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