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生まれ育ち

 親のことは大好きだったから、対峙するのはいつもその向こうの世界だった。いや、世間という名の狭いものだった。
 売れない芸人から最期には知る人ぞ知る芸人として愛され惜しまれて逝った父は、外見の印象とは違い、家のなかでは破天荒とはほど遠い人だった。「『ビンボーは怖くない』と若い人たちに言いたい」と常に口にしていたほどに、日々を楽しむ天才だった。
 私が小学3年生の頃から12年間スナックのママだった母は、煙草も吸うし、お酒も飲み、麻雀も強かったが不良女性ではなかった。家族のために身を粉にして働き通しだった彼女は、豪快に笑い、差別心がなく、地位や名誉にひれ伏すこともなかった。真に人格者で、これ以上の母親はいないと私には思える。
 私は在日朝鮮人三世として東京で生まれたが、世田谷の公立学校に通名で通い、「日本人」に囲まれたなかで成長し、指紋押捺をする前に家族で日本国籍を取得したため、就職差別や法的な差別には遭っていない。
 両親と兄二人の核家族、正月やチェサ(法事)で集まる大阪の親戚と比べても、男尊女卑が激しい日常ではなかった。ほかの日本のいくらか進歩的な考えの一家と変わらない雰囲気で、家事のいいつけには、「なんで私ばっかり……。お兄ちゃんたちはしないのに」と思うこともなくはなかったが、それも小さなことの一つにすぎなかった。
 
 私には突出した何かがない、それは才能と呼べるものだったり、悲惨な生い立ちだったり、そうしたものがないというコンプレックスは、「表現者」の世界を渇望するにあたり、終始足かせになっていた。
 親子の葛藤が創作の起爆剤にはなりようがない私のこれまでの道のり。翻って政治、社会への憤りは大きく、一緒に舞台に立った俳優からも、「政治家になったらいいのに」と言われ、ますます進む方向がこんがらがっていく。
 政治への関心は大いにあるが、政治家になって何かしてやろうなどという気持ちはみじんもない。
 「書いたり、しゃべったりしてみたらいい。それが一番お前に似合っている」と死ぬひと月前に父から言われたことに執着しながらも、何をどうしたら「お金」になるのか、喰っていけるのか、そもそもそんなことで生きていけるのか、生きていっていいのかもわからず、その場つなぎのパートタイム仕事に従事し、「表現」の機会は、「いつか」来るときのためにとっておいた。

 そう、とっておいた、つもりだった。人間年を取るし、周囲もそういう目で見る、見られるという当たり前の事実を無視して、ずっとそんな気持ちだけは消さずにいた。
 そして、子どものためにやりたいことを我慢していると言い訳するネタが、あと少しで賞味期限切れになることに気づく。ひとり娘は現在大学一年生。確固たる目標に向かい、やるべきことにまっしぐら。なんて眩しいのだろう。
 彼女との親子関係もいたって良好。これもきっと「表現者」の条件にはふさわしくない。
「母と娘の葛藤を乗り越えるためにペンをとりました」は通りがいい。
 翻ってわが娘は「お母さんの好きなことできるといいな」と、鬱々とする私にやさしい言葉をかけてくれる孝行者。その娘を安心させたいためも理由のひとつという創作欲。これは大層一般的ではないし、理解もされない。
 父のエールを受け、母が生きているうちに一花咲かせて安心させたかった。いま、最後に残されたゴールは、娘が母親である私を心配することなく、自身の道を歩んでいけるように、そう、そのためにも、私は、一発当てる!しかない。ストーリーテラー・トークパフォーマーとして。
 
 幸せな家庭に育ち、幸せな家庭を築いたからこそ、伝えられる唄もある。だよね? 
 


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