聞く耳を磨く

 話す力と聞く力。単純に両者を比較すると、どちらがより高度な能力を求められるだろう。
 企業などでは「プレゼン」スキルが高い社員ほど注目されるし、「人前で話すのが苦手で……」という人はいても、「聞くのが下手なんですよ」と口にする人はそうそういない。
 それは、「人の話は最後までちゃんと聞きなさい」と言われて育った人も多いと思うが、長い学校教育の過程で、ほぼ「聞かされる」立場におかれ続けるなか、次第になれていった結果かもしれない。聞くふりが身についたにすぎないともいえる。また、随分まえに『聞く力』という本がベストセラーになったり、『傾聴』講習なんてものも流行ったが、それはあくまで話し手を持ち上げるための技術をさしていた。つまり、『聞く力』というより、相手に『しゃべらせる力』のことのように思う。

 しかるに、やはり、話すことの方が聞くことよりも難しいのだろうか。

 前回の稿で「身体の記憶」について書いたが、そのことを考えるきっかけとなった、認知症の人たちとのやりとりのなかで、この「話すこと・聞くこと」についても発見したことを綴ってみたい。

 認知症デイケアで働きはじめてすぐに、冒頭の問いが頭をめぐった。認知症という病気の重軽度は言葉の能力のみには言及されない。そのことは前もって聞かされていたし、研修などでも徐々に学んでいき、知っているつもりだった。だが、きちんと挨拶が出来る人はそうでない人に比べ、まだ症状が軽いのだと早合点し、”普通”の会話をついついしてしまう。
 例を挙げると、お菓子が入った皿を手渡しながら、「まわしてください」と“普通”に言ってしまうことであるとか、だ。「今日はいい天気だねー。心が晴ればれするよ」と、“普通”の会話をする人が、その「まわしてください」の意味を理解することが出来ず、菓子皿をただただボーっと見つめている様子に、「いけない、やってしまった」とはっとした。説明する必要もないと思うが、「まわしてください」とは、隣の人にそのお菓子を手渡してくださいということを意味している。
 そのように、話せる人が聞けないという場面にたびたび出くわし、いったいこれはどういうことなのだろうと困惑していたとき、語学雑誌の記事にヒントを見つけた。
 アメリカ人の翻訳者が「英語の方が日本語よりも発言者が負担する役割がより大きい」と指摘していた。例えば、目の前に一匹の猫が横切り、思わず、「可愛い!」と言ったとしよう。英語ならば、”That’s a cute cat.”と明らかに日本語より長い文になると説明が続く。いわく、日本語の話し手は少ない単語で意味を伝えることができるけれど、英語の方はより細かく、いろいろな情報を発信しなければならない。言い方を変えると、日本語の聞き手よりも英語の聞き手の方が負担が軽い。つまり、日本語では話し手の言わんとしていることを聞き手がより注意深く読み取る能力が必要とされる。「可愛い」ものが目の前を通り過ぎた一匹の猫であり、「まわす」ものは、渡された菓子皿を指しているということを、英語に比べ、日本語の方が理解しにくいからだ。
 認知症者の言語能力低下への過程において、日本語話者は、話すことより聞くことの能力の方が早く落ちていくのではなかろうかという仮説(発見というほどのものではなかったかしら)を、この言語の仕組みについての記事から立ててみた。もっとも英語圏の認知症者と接触したことがないので立証するにはいたってない。また、似た言語を持つお隣の国についての考察も必要だろう。

 では、病気がゆえに聞くことが難しくなってきている人ではない場合はどうであろう。日本語という言語の特質から、やはり、聞く力の劣化が話す力より著しいのだろうか、そしてそれは仕方のないことなのだろうか。 
 言われてみればその通り、そのことを隠れ蓑にしている輩のなんと多いことよ。
 その最たるものが国会審議で交わされる答弁だ。話す力も聞く力も全く必要とされていない。聞かれた質問には答えず、何を話しているのか不明であっても、一様に「説明責任を果たしている」とのたまわる。
 政治家だけではない。上司だって、親だって、上下関係にあるなかでの対話は、言い負かされて終わる率が高い。彼らが話す力に長けているから?ではない。聞く力がなくてもいられるポジションにある人は、話す力があるように見せかけることも可能だからだ。そこ、騙されてはいけない。  

 日本語という言語が、他と比べて聞く能力をより要求されるなら、聞く耳を磨いたうえで語られる言葉にこそ、ひとの胸に響く力が宿るように思うのである。

 

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