決められない

 迷う、迷うのだ。人生さまよいながら生きてきた。

 いまの世の中、選択肢が多すぎる。

 いや、だからということを理由にして、世間の誰もが迷いのさなかにいる、そうに違いないと断定することはできない。しかるに、これは自分の性《さが》であるというしかない。

 幼い頃にさかのぼってみると、他の家も似たりよったりだったとは思うが、よっぼどの金持ちの子に生まれないと、「選ぶ」環境にはなかった。親の経済力、親の考えに支配されるのが常である。
 「今日は何が食べたい?」などと聞かれたことはなく、苦手なものが食卓に並んで箸をつけずにいると、「食べたくなかったら食べなくていいよ!」と働き通しの母が恐い顔をするので、腹が減っては戦は出来ぬ、口に放りこむしかない。
 服はたいてい兄たちからのおさがりだった。散髪屋に一緒に行かされたので短髪が定番でもあり、外見からいつも男の子に間違われた。
 補助輪つきを経ての助走期間はなく、自転車に乗る練習はいきなりママチャリからだった。いまのママチャリではない。荷台も大きく、郵便配達人が使用するようなガッチリとした車体だ。サドルを一番低くしてもペダルに足が届かない。兄が後ろに座って支え、ペダルをこぎ、私はハンドル操作の練習からはじめた。

 あるもので我慢する。これは、足《た》るを知るとは似て非なるものだ。身の丈の範囲で生活することになるのだから同じようなものだが、多くを望まないのではなく、多くを”望めない”結果だからだ。

 そんな環境にいたときに、突如「選択権」が与えられたら、あなたならどうする?

 迷う。うん、だよね。迷うし、「これ!」ってなかなか決められないよね。そしてたいがい失敗する。選び馴れていないうえに、せっかく選びとったのだから、それが最上の選択だったと満足したいという欲求が増す。

 こどものころ私に選択権を与えてくれたのは叔母だった。父の七つ下の妹。祖父が若くして亡くなったため、細腕の祖母を助けるためもあってか、この兄妹はとても仲が良く、愛情深いつながりがあった。ビンボーしている兄貴の子が不憫でならなかったのだろう。東京と大阪と、普段離れて暮らしていた叔母は、たまに会うと喫茶店に連れて行ってくれたり、物を買ってくれたりした。
 ある日、服屋に入り、「好きなん買《こ》うてあげるから、選びー」と言ってくれた。私は新品の服の合間を歩きながら、ときにハンガーを取り出し、自分の体に合わせ、迷いに迷った。上物ではなく下に履くものが欲しかったから、スカートにしようか、パンタロンにしようか、コーデュロイパンツにしようか……。
 決められないでいる間に叔母が時計をちらちら見始めたプレッシャーを背後に感じ、結局オーバーオールにした。テレビっ子だった私が当時好きだった番組『ムー一族』で、郷ひろみと樹木希林がペアルックで着ていた姿に憧れた。
 失敗した。あ、いや、そんなことを言ったらいまは亡き叔母もあの世で苦虫を潰してしまうだろうから、失敗、とは言わないでおこう。でも、あとで後悔はした。
 おろしたての格好で小学校に行くと、似たようなものを着ている子がいて、あー、あんな風なのも良かったなーと思う私がいた。そして究極はトイレだ。当時の学校に洋式便所はなかった。オーバーオールは、しにくい。あ、もれそう、というときなんか特にもたもたして、や、や、やばいーとあせる。そのうえたまに、脱ぎ着するときにぽっちゃんと和式便器のなかに落としてしまうことがあった。さらには二層式の洗濯機では場所をとりすぎるし脱水のとき金具があたってガタゴトうるさく、干すにいたってはなかなか乾かない。
 うーん、やっぱりあっち、そっち、こっちにすればよかったなー。

 万事がその調子だ。

 高校受験のときは幼馴染と一緒に行く学校に決めていたのに、直前まであーだこーだ悩み、願書を取り下げ、他校に変更してしまった。彼女とはしばらく疎遠になった。

 就職試験は逆に楽だった。売り手市場、就職率100パーセントの時代だった。え、ならば、ひくてあまたの選びたい放題、迷いのるつぼにはまるでしょうにと思われるかもしれない。けれど、私の希望職が旅行会社だったため、選択肢がほぼなかったのが功を奏した。旅行会社で短大卒の女性社員への求人は少なく、就職課に来ていた求人票もそもそもゼロに近いので悩む必要がない。

 そこでOL生活を約二年やった。その会社員時代も決められないことはなかった。悩む必要性に迫られなかったからだ。悩むには時間が必要だ。
 そう、そのときの私には圧倒的に時間がなかった。社内の壁時計を見て、「11時って今日2回目だな」と、忙しさに消耗されるわが身をふっと笑いたくなるほど、目の前の仕事をこなす日々だった。インバウンドの旅行会社だったので、直接お客さんとのやりとりはなく、ツアー日程やコース内容、ホテルやバスの手配に至るまで、すでに定番があり、私が主導権を握って「素敵な旅」を演出する必要がなかった。だから迷わず、決められた。
 短大の友人たちはバブル華やかりしころ、アフター5を満喫していた。手の届く趣味も多種多様に増えて行った時代だ。そこでも私は決めかねるということがなかった。アフター5がなかったからだ。そのうち誰からも声がかからなくなり、友人との付き合いに、あっちに行こうか、こっちの誘いにのろうかなどと頭を悩ませることもなくなる。
 しかし、決められない自分自身の性格を悪しきものとして見たとしても、こうまで「決めなくてよい」状況に陥りながら、やることはわんさとある日々を送っていると、これはこれで自分を見失う。
 24時間働けますか×365日×何年続くんだよー、うっひゃー。となって旅行会社を辞めた。

 そこからは迷走の人生がはじまる。あらゆるバイトのかけ持ちに、バックパッカーとして海外放浪を繰り返し、舞台活動もあれこれ手を出し、住む場所も仕事も変えてきた。パートナーシップも数は多くはないけれど、一人のひとと末永く幸せに暮らしましたとさ、ちゃんちゃん。ということにはなっていない。

 そんな私にも迷わず決断したことがある。いま振り返っても一寸の迷いもなかったと言い切れる。わたしだけではない。きっと多くの母親がそうだろう。
 はい、ただいま19歳になる娘をお腹に宿したと知ったときのことです。
 娘の父親とは出会って1年もたっておらず、お互い定職には就いていなかった。アルバイト収入はあったが、夢見るユメコちゃんとユメオくんの二人だった。のちに別れることになるパートナーに対しては、そのときすでに「この人と一緒になって大丈夫だろうか、やっていけるだろうか」という不安な気持ちを抱えていた。
 私は三人きょうだいの末っ子。「なんとかなるさ」は、つまり、「誰かがなんとしかしてくれるさ」であり、実際それまでなんとかなってきた。だがそのときは、自分がなんとかしなければならない状況に陥るかもしれないという試練も頭にかすめはした。びびりな私にとっては、かつてないほどの岩が立ちはだかっていたという状況だ。
 それでも生まない選択はなかった。
 そのうえ、生んで失敗した、後悔したという現在《いま》もない。

 決められない性質《たち》の私が、自分の決断に最大の拍手を送るのが、娘の母になることだったことは間違いない。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?