悩みの重さ

 そのむかし、ある人が言った。
 五歳の子どもの悩みも五十歳のおとなの悩みも重さは同じだ。
 なるほど、うまいことを言うものだと感心したが、いまはちょっと見方が変わった。重さは変わらぬけれど、こびりつきかたが違う。こどものそれは瞬間で、おとなのそれはリフレインする。
 泣いたカラスがもう笑った。とはもうならない、もはやなれない。
 そのあたりのことを人生相談で問えば、脳科学者や小説家や僧侶など、それぞれの知見を教え答えてくれるだろう。
 でも、そんなことが聞きたいのではない。どうしたら、その堂々巡りの悩みの正体をあばき、すっきり爽快に二度と同じわだちを踏まぬように、明日は明日の風が吹くとうそぶくことができるのだろう。そう、うそぶくだけで構わない。確固たる答えなんてそもそもありはしないのだから。とにかく、いまのいまだけでも、悩んでもがいて苦しんで自己嫌悪に陥る、ということから解放されたい。
 「グラウンド十週!」と体育教師なら喝を入れ、「マインドフルネス、いいわよー」とママ友はすすめ、「刺子はどうですか」とデイケアセンターの作業療法士は作品を見せ、「土は裏切らない」と野菜作りに精を出す人は口にするだろう。
 そのどれもがだれかにはひびくのかもしれない。やって悪いことはない。しかし、本当にほんとうにしんどいときには、なにかをやろうという気が起きないのだ。なのに、頭は明晰に活動する。はい、自分いじめという危険な行いがはじまるからやっかいなのです。楽しいことが長続きしないように、つらいこともいつか終わりがやってくる。そんなこと、何度も何度も経験しているのだから、ただ、ただ、そのときを待てば良いはずなのだけれど、抜け出せない。正確には、一生抜け出せないと思ってしまう、のだ。だれが? 自分が、わたし自身が、だ。

 春が来た。つい最近まで暖房が手放せない、例年より寒い日が続く3月だったのに。寒いのは苦手だけれど、寒さを言い分けに出不精になっても罪悪感が軽減され、気力が落ちても、「いままで走り続けてきたのだから休みなっていう合図だよ」と、自分に都合のよい声に耳を傾け、布団にくるまっていられた。
 そこへ、一気に、春がきた。目覚めなさい、外に出なさい、動きなさい、とたたみかけられている気がして、萎える。
 悩みの重さは軽くはならないし、きっと重くもなっていないのだろうけれど、とらえられたままの状態が、「ま、いっか」と調子のよいときのように流せないでいるのがつらい。

 こんな風になるなんて、なってしまうなんて思ってもみなかった。はじまりは、昨年の自称「コロナ鬱」からだ。受診はしなかったけれど、行政から送られた検査キットで陽性だったので「コロナ」感染したのは確かで、高熱が続き、味覚、嗅覚がなくなった。そしてその後しばらくは表情がとぼしくなり、果てには、笑わなくなった。なので、「コロナ鬱」という診断をくだされたわけではないけれど、自称した。
 もともとアップダウン激しい性格で、昇れば天井知らず、落ちれば底知らずではあったけれど、五歳のこどものように、いつも瞬間の現象だった。長くてもそれさえ三日坊主。三日過ぎれば、落ち込んでいた様子を友人が心配していたのも馬鹿らしくなるくらいに、泣いたカラスがもう笑っていた。のであったから、たいしたことはなかった、いま思えば。

 ところが、ところがだ。近ごろはなんだか様子が違う。

 原因は目星が付く。子が巣立ち、なじみのない、いや、住んだ年月は重ねど、いまだなじめない町でのひとり暮らし。定収入先を失い、求職活動に疲れ、貯金を切り崩す日々のあせり。一方で、積年の願いを一年発起し、一心不乱に取り組んできたことの成果を経て、ある種の燃え尽き症候群に陥ってもいる。「わたし、やれば出来るじゃん」と、世にいう小さな成功体験がかえって仇になり、やれるのにやらない、頼れば応援してくれる人はいるのに出来ない、という「悩み」がリフレインする。
 そして、こうした私自身の「個人」的な思いや経験と並行して、更年期という「生理学」的なことも大きいのだろう。そう思うと、多少なりとも誰もが通る道なのかもしれない。もっとも、男女差別の、さらにまた非正規雇用の問題など、日本社会の構造そのものが背景としてあることはいわずもがなではあるので、単にそのような言葉で自分を納得させるのもどうかと思う。

 ええい、やかましい、じゃあどうしろっていうのよー!

 連帯、連帯、連帯、連帯、連帯。
(ここ、ズンチャッ、ズンチャッ、ズンチャ、ズンチャ、ズンチャッ、のリズムで唄って読んでね)

  まあ、この、いかに私たちが敵の罠に自らはまり分断されることなく、つながれる手を離さず、諦めず、棺桶に片足つっこんだように死んでるように生きさせられる状態に、ノー!と叫びつづけるか、という辺りは稿を変えて論じてみたい。いや、論じるなんて大層なものではありませんけれど。

 その前にいまできることで有効なこと、気力がなくてもオーケーなことを考えてみた。体育教師でも自己啓発セミナー好きでも、作業療法士でもない私が、こびりついた悩みを少しでも振り払うことができた、最近のこと。
 同じ重さの「悩み」を抱えながら、そのことだけにとらわれない人生の先輩、実際はうんと後輩なのだけど、はい、そうです、五歳児と遊ぶこと。
 遊ばなくてもいい、たた眺めるだけでも。彼らは、あなたが(わたしが)なにものであるとか、なにを成し遂げようとしているのか、していないのか、とか、どんな夢を持ち、何度失敗し、もはや望むこともなくしてしまったとか、あきらめきれない何かがあるのか、とか、とか、とか、とか。何も問わないし、気にすることもない。
 走ったり、転んだり、泣いたり、笑ったり、誰かの真似をしたり、真似されたり、虫を見つめたり、こわがったり、おいしそうに食べたり、ぺっと吐き出したり……。
 知らない子でも知った子でも、彼らの一挙手一投足に心が奪われるのはなぜだろう。鼻の裏がつ、つ、つーと、やば、やば、ばれるー。
 まだ乾ききっていない心に気づけた。

 「鬱」というキーワードで検索する手がとまらなくなったら、外に出て、五歳の子にボールを投げ返してあげよう。と思えた時間が春のよきことだった。

 

 

 

 

  

 

 

 

 

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