週刊「我がヂレンマ」<4月15日号>

 季節外れの暑さについつい冷房のテストを行ったが、年々、気候がおかしくなっている気がしてならない。
 かといって、私に出来ることは、仕事をし、文章を書くことぐらい。
 ぶっちゃけ気にしていない。書き出しに悩んで、「今日、暑かったな」てことで採用しただけである。少ない脳の容量を割くには、ちと、弱い。
 と、思ったが「気候変動」をテーマに小説を書いたらどうか。あまりに暑くねっとりじっとりクラクラな状態の主人公の熱射病文学。
 意味不明だが、面白いかもしれない。
 それはそうと、今週のコンテンツ。
<メモについて解説と考察>
<購入した書籍の紹介>
<フリートーーク(手抜き)>
 やる気のギアを上げて、
 やるしかないの一心で突き進むのみ。気合だけは一流です。
 前置きはこれくらいにして、書いていこう。

<メモについて解説と考察>

「掃苔(そうたい)」
 墓の苔をきれいに取り去ること。転じて、墓参り。特に盂蘭盆前(7月15日を中心に祖先の冥福を祈る仏事)の墓参りをいう。
「――の埃あげたる箒かな/麦南」
 私は霊園使用料を払い、墓参りにいっているが、墓石に苔が生えたためしがない。それよりも雑草が酷い。隣りはもっと酷い。

「仄聞(そくぶん)」
 少し耳にはいること。人づてや噂などで聞くこと。
「――したところでは」
 類語に、聞き伝え、伝聞、人づて、又聞き。
 関連語に、風の便り、口コミ。
「仄聞」分からないよねぇ。文章に出てこられても。

「俺は地球や!」
 どういうことでしょう。わかりません。窮鼠猫を嚙みなシーンで、つい出てしまったセリフだろうか。釈然としない。よく考えてみれば、我々は一人ひとりが地球の住民であり、拡大解釈すれば地球そのものであり、何も間違っていない。
「俺は地球や!」なんだか自信がモテてきた。みんなで叫ぼう。肩で風を切ってねり歩こう。アイ・アム・ア・アースである。

「斗鬼(とき)」
 非常に珍しい苗字。全国順位は56,667位、全国人数はおよそ30人。神奈川県に集中しており、有名人に斗鬼正一さん(文化人類学者)がいる。
 この全国人数だと、全員、親戚であろう。
 どうも珍しい苗字に魅かれる。

「客死(かくし)」
 他国や旅先で死ぬこと。きゃくし。
 漢字文化圏での客死の記述は、『史記』にしばしば現れる。「晋世家」には悼公が「祖父も父もみな国君に立つことが出来ず、何を避けて周におり、その地で客死しました。(書き出し:大父・父、皆、立つことを得ずして周に辟難し、客死す)」とあり、「屈原伝」では、楚の懐王について「兵挫け地削られ、其の六郡を亡ひ、身は秦に客死し、天下の笑ひと為る。」とある。
 日本語では、1343年(興国4年/康永2年)に修訂が終わった『新皇正統記』巻五の後白河法皇条に「左大臣は流矢にあたりて、奈良坂辺(ならざかのほとり)までおちゆかれけるが、つひに客死せられぬ)。」とあるのが古い使用例もある。

「知識が物事を変えてしまう」
 出典不明。いや、アルジャーノンに花束のような、オッペンハイマーだったような。
 核爆弾、原爆を開発してしまったが為に、抑止力としての兵器として世界に広がった。キューバ危機、冷戦を経て、今まさにロシアがウクライナで使用する可能性がある。
 良くも悪くも知識によって行動が変わる事がある。
 特に例はないけれど。

「アルジャーノンに花束を」
 アメリカ合衆国の作家ダニエル・キイスによるSF小説。1959年に中編小説として発表され、翌年ヒューゴー賞短編部門を受賞。1966年に長編小説として改作されて発表され、翌年ネビュラ賞を受賞した。
 主人公の青年チャーリイが知的障害から、ハツカネズミのアルジャーノンと同じ手術を受け、その後の経過をアルジャーノンと比較しながら、精神科医や先生たちに日常を交えた報告をしていく姿が綴られた物語である。
 手術の結果、チャーリーは徐々に知能を獲得し、ついには「天才」並みの賢さを獲得するまでに至る。
 物語は、数人の科学者、心理学者たちが障碍者の脳の一部を手術して頭をよくできるのではないかと仮説し、ネズミのアルジャーノンで実験したところ、著しい知能の向上がみられたことから始まる。

<購入した書籍の紹介>

「他人の顔」
                              安部公房
 液体空気の爆発で受けた顔一面の蛭のようなケロイド瘢痕によって自分の顔を喪失してしまった男・・・・・
 失われた妻の愛をとりもどすために”他人の顔”をプラスチック製の仮面に仕立てて、妻を誘惑する男の自己回復のあがき・・・・・・。
 特異な着想の中に執拗なまでに精緻な科学的記載をも交えて、”顔”というものに関わって生きている人間という存在の不安定さ、あいまいさを描く長編。

「無関係な死・時の崖」
                              安部公房
 自分の部屋に見ず知らずの死体を発見した男が、死体を消そうとして逆に死体に追いつめられてゆく「無関係な死」、試合中のボクサーの意識の流れを、映画的手法で作品化した「時の崖」、ほかに「誘惑者」「使者」「透視図法」「なわ」「人魚伝」など。
 常に最先端の主題と取り組み、未知の小説世界を構築せんとする著者が、長編『砂の女』『他人の顔』と並行して書き上げた文学的野心作10編を収録する。

「カンガルー・ノート」
                              安部公房
 ある朝突然、〈かいわれ大根〉が脛に自生していた男。訪れた医院で、麻酔を打たれ意識を失くした彼は、目覚めるとベッドに括り付けられていた。
 硫黄温泉行きを医者から宣告された彼を載せ、生命維持装置付きのベッドは、滑らかに動き出した・・・・・・。
 坑道から運河へ、賽の河原から共同病室へ――果てなき冥府巡りの末に彼が辿り着いた先とは? 急逝が惜しまれる国際的作家の最後の長編!

「友達・棒になった男」
                              安部公房
 平凡な男の部屋に闖入して来た9人の家族。善意に満ちた笑顔で隣人愛を唱え続ける彼らの真意とは。
 どす黒い笑いの中から他者との関係を暴き出した谷崎賞受賞の傑作『友達』〈改訂版〉。日常に潜む裂け目に広がる疎外感という闇。閉塞と孤独の覚悟を迫る『棒になった男』。
 激動の幕末を生きた人物に新たな光を当てた『榎本武揚』。斬新な感性で”現代”を鋭く照射する、安倍公房の代表的戯曲3編を収録。

「密会」
                              安部公房
 ある夏の未明、突然やって来た救急車が妻を連れ去った。男は妻を捜して病院に辿りつくが、彼の行動は逐一盗聴マイクによって監視されている・・・・・。
 二本のペニスを持つ馬人間、出目が試験管の秘書、溶骨症の少女、〈仮面女〉など奇怪な人物とのかかわりに困惑する男の姿を通じて、巨大な病院の迷路に息づく絶望的な愛と快楽の光景を描き、野心的構成で出口のない現代人の地獄を浮き彫りにする。

「方舟さくら丸」
                              安部公房
 地下砕石場跡の巨大な洞窟に、核シェルターの設備を造り上げた元カメラマン「モグラ」。[生きのびるための切符]を手に入れた三人の男女とモグラとの奇妙な共同生活が始まった。
 だが、洞窟に侵入者が現れた時、モグラの計画は崩れ始める。その上、便器に片足を吸い込まれ、身動きがとれなくなってしまったモグラは――。
 核時代の方舟に乗ることができる者は、誰なのか。現代文学の金字塔。

「田中英光傑作選 オリンポスの果実/さようなら他」
                       田中英光 西村賢太=編
 ぼくはあのひとが好きでたまらない。
 ロサンゼルス五輪に参加する選手団を乗せた客船で、坂本は高跳び選手の熊本秋子に一目惚れした。しかし、2人の仲を同僚に揶揄され、ついには選手間の男女接触禁止令が出てしまう。
 オリンピックに参加した自身の体験を描いた「オリンポスの果実」、晩年作の「さようなら」など、珠玉の6篇を厳選。
 太宰治の墓前で散った無頼派私小説家・田中英光。
 その文学に傾倒する西村賢太が編集、解題。

「[初版復刻]書を捨てよ、町へ出よう(寺山修司没後40年記念)」
                              寺山修司

『1967年刊行の名著初版を完全復刻! 装幀・レイアウト・イラストは横尾忠則』

<復刻特別付録>
 1967年公演『毛皮のマリー』『大山デブコの犯罪』の復刻チケット付き(リゾグラフ印刷)
 
 1967年に芳賀書店より刊行された寺山修司の『書を捨てよ、町へでよう』。初版本のブックデザインは横尾忠則。寺山修司のテキストの合間には横尾忠則のコラージュ作品が多数収録され、文芸書の枠を超えたアートブックともいる一冊。寺山没後40年を記念して、文庫版未収録の作品も当時の内容そのままに完全復刻。
*本文左頁の上隅にあるカットは、ページをめくっていくとアニメーションのように動くパラパラ漫画になっています。

 なんだろう。没した作家の作品ばかり買っている。存命の、現代の作家に興味がない訳ではないが、どうしても昔の(西村賢太氏は2022年に没)人間のほうに意識がいってしまう。
 これもひとえに私の無知がなせるわざなのか。何の巡りあわせか。
 何にせよ、優れた作家の作品は時を経ても色褪せることはない。人間の本質や行動なんて大して変わらないものだ。
 それに、戦前生まれの作家のほうが、強い信念が地下深くに根を伸ばしている。気がする(単に現代の作家をあまり読んでいないだけ)。
 安部公房先生を読破したら、三島由紀夫先生の作品も集めてみようか、と、考えている(確定ではない)。その他の文豪も渉猟しても良し。
 しばらく文学の大海を遊弋してやろう。

<フリートーーク(手抜き)>

 あと、1,000字は書かなくてはならない。「フリートーーク(手抜き)」と銘打っているので、特に気を遣わなくてよいが、始まって早々に蛇足に突入するのはけしからん。かといって特にアンテナは何も受信しない。
 寂漠感の支配する砂漠の表面を、風が吹きすさぶ荒涼とした世界で、文章に意味を見い出そうと、歩みを進めるような心境である。
 虚空で虚無感に支配され、中空で浮遊しているような空辣な寂寥感。
「自由にもほどがある」
 地に足つけたい。
 いや、せっかく浮いているなら、どこまでも飛ぼう。
 いや、風に流されていこう。
 あれ。何もない。砂嵐がつづくだけだ。眼下をみると、微かに複数の人影が倒れている。屹度、私と同じように何も浮かばず創作の砂漠で、風に流されていたのだろう。途中で力尽き、力なく墜落したのだ。死屍累々とするこの世界で、死ぬわけにはいかぬ。威勢をみせたものの息も絶え絶えであり、虚勢が姿を現す。
 何故こうなるのか。それは、無から有を産みだすという、無為な挑戦にようるものだ。

「ワンソース・マルチユース」
 ひとつの素材(=ワンソース one source)を複数の用途(=マルチユース multi use)に用いるという意味で使われる。
 出版、Web等のメディア関係では、ある媒体用に収集・製作したテキストや画像・動画、デザインなどのデータを用いて、新たに他媒体を制作するような場合を指す。
 いわゆる素材の流用や二次・三次利用も含まれる場合もあるが、考え方としては、構造化されたデータやデータベースなどを利用した情報の一元管理や企画設計段階から多元的利用を前提としたワークフローなど、よりトータルな概念で用いられることが多い。

 ワンソース・マルチユースの精神で、以前使った素材を複数の用途で使い倒してやろう、ということか。つまり、私にゴミを漁れと。
 玉すくなめの玉石混合の墓場で、ひたすら掘りかえし、よい素材を発掘すればよいのか。
 根がセンチメンタルである私ならば、暗所の腐泥をゆくようなマネはできそうにない。ならば好きな要素を箇条書きにして、それらを素材として利用していけば良いのではないか。
 できれば、複数組み合わせてみよう。
 なんだか希望が湧いてきた。このところ頭が頓馬になっている。
 それはそうと、自由に自由を塗り重ねていたら、ノルマである5,000字を超えた。だからなんだ。知った事か。
 明日から三日連続でショート・ショートだ。
 駄作を世に放たぬよう創作の神(安倍公房先生)に祈りを捧げつつ、
 私は、寝る!
 

 
 

 
 
 
 
 
 
 

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