あなたの文章と詩

 何故だろう、他人の文章というのは全く、面白い。その人を知っているとまた2倍面白い。文章には味もあれば色もあるし、軽やかなステップから瞬間の凝縮の閃光まで、まったくバリエーションに富んだ内容がある。言葉の上での身体性。彼や彼を知ってるからこそ、貴方こんな身体をしていたんだね、と言いたくなるような。初夜、君ほど美しいものはこの世にないのかもしれないと思った20歳の頃。それと同じ感覚を私に与える。
 恥ずかしながら、貴方のことを知ったつもりでおりました、しかし一方、初めて見た貴方も確かに貴方なんです、だからこそ本当に参ってしまいます。そういう気持ちになる。
 我々はどうにもお互いに語りあう。その際にはお笑いというベールが内容を調整する。添加物や調味料のようなものである。それはおそらく、噛みやすいようにとか、おいしく食べられるように、のような工夫である。しかし、文章の上ではそういったものは剥ぎ取られ、いや正確には違った調理のされ方をする。そして、それを我々はその人自身であると錯覚するのである。そうそれは錯覚だ。文章にも普段のふるまいにも真実はない。
 文章のうえでの貴方と語らう上でのアナタ、どちらも錯覚であるとして、その中間に真実の貴方を見る。錯覚と錯覚の間にこそあなたはいる。ゆえに、そこに裸を見たような気恥ずかしさや、官能のようなものがあるのではないか。詩が「Aという言葉とBという言葉を配置することによって、その間にある言葉を超えたXを表現するもの」であるとするならば、まさに我々の「その人を知る」というのは詩を読むことなのである。貴方の普段の仕草Aと、文章上での振る舞いBを見た時、私の中に浮かぶ貴方はそのどちらでもないXなのであり、そのXとは現実界の事象を超えたところにあるものなのだ。間違っても文章が真実なわけでもないし、普段の仕草が真実なわけでもない。この現実界には我々の知りたい真実は存在しえないし、まして、それを手に取って捕まえたいなどという欲望はまったく道理に適ったものではない。我々は詩としてアナタを読み、そして、それゆえに詩としてアナタを美しいと思ったり、おもしろいと思ったりするのである。
 破天荒な人が魅力的だとするのは、その人の行動とまた違った側面との落差によって、詩として幅が広いことが理由ではないかと思う。逆に一貫性を持った人というのは詩にならないよう努めて、商品の説明書きになろうとしている人なのである。
 私はどうであろうか。私は一貫性を持とうとするのである。1夜限りの関係などというもののあと、その誰かに執着するのは詩になってしまうのが恐ろしいのかもしれない。「好きだから貴方を抱きました。」それ以上の意味を持ちたくないのかもしれない。詩であることは辛いことである。詩であること、曖昧で複数の意味を持ち、何も決定されない状態。それは切断的、分節的である人から見れば、歯がゆい状態である。もしもそれを美しいと享受できるなら。もしもそれを切断的ではなく動き、運動として見ることができるなら。過去、現在、未来、三世の複合として見ることができるなら。そして、もっというのならそのうえで、切断(行動)ができるのであれば、私はもっと豊かに生きれるのではないか。私の目論むことは、まさにそのようなことなのである。
 無時間的な「みんなのために」はまやかしである。そんなものは不可能だ。全てにとって良い場面など定点では考えにくい。だが、有時間的な「みんにのために」は可能なのではないか。全ての時間を総合して、みんなにとって良かったねは可能なんじゃないかということである。三世を束ねて観ることは現実界では不可能であるが、詩として見出す次元ではなしうるのではないかと思うのだ。

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